牽牛石
(追記:大阪府枚方市・交野市の七夕伝承について考察した『七夕伝承と天野川-和歌・物語世界の心性史』をアップロードしました。(まだ書きかけの考察です))
大阪府枚方市の中山観音寺跡(観音山公園)には、牽牛星が「星下り」で有名な中山寺へ沈む夜空が望める牽牛石(牽牛石神・牛石)という大きな石があります(枚方市史編纂委員会, ed. 枚方市史. Vol. 2. 枚方市, 1973:289-299. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3009452/170 )。 牛石とも呼ばれていましたが(岡市正人. “北河内より.” 郷土研究 2, no. 8 (1914).)、『爾雅』(B.C.200年頃)や『天官書』(B.C.91年頃)の牽牛は「牛宿」です(新城新蔵. “七夕物語.” 科学の古典文献の電子図書館「科学図書館」, n.d. http://fomalhautpsa.sakura.ne.jp/Science/ShinjyoShinzo/tanabata-story-utf.pdf .)。
近年、牽牛石をはじめ交野市・枚方市の七夕伝承偽史説(1)があるので検証しました。 中山観音寺跡は発掘調査の結果古代寺院であった事がわかっています(枚方市史編纂委員会, ed. 枚方市史. Vol. 12. 枚方市, 1986:136-137. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2987970/84 )(枚方市史編纂委員会, ed. 枚方市史. Vol. 別巻. 枚方市, 1995:118-119. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2987976/77 )。
牽牛石と七夕伝承
織女(ベガ)と彦星(アルタイル)は約15光年離れていて物理的には合えません。 七夕などの伝承は、人間の心の中に存在しています。牽牛石には七夕伝説があります(→七夕伝説)。(→その他の枚方市交野市の七夕伝承)
牽牛石の中山観音寺跡と摂津国紫雲山中山寺
牽牛石がある中山観音寺跡の伝承(→茄子作村史)では、摂津国紫雲山中山寺(江戸時代は仲山寺)の元は中山観音寺跡と書かれています。それぞれの座標は下記です。
牽牛石(34度47分19.83秒 135度39分15.13秒34.788843,135.654202,標高:46.6m(国土地理院地図))
中山寺本堂(34度49分18.11秒 135度22分3.83秒34.821698,135.367731,標高:81.5m(国土地理院地図))
中山(中山寺のすぐ北)(34.504059, 135.211874, 477.9, なかやま(2△), 31, 1, 1, WGS84, 34.8446083, 135.3552056(カシミール3D))
牽牛石から見て中山寺本堂は地球半径r=6378.137kmとして計算すると
方位角φ278.033229 °(278°1′59.62″)(西90°だと98.033229)、
牽牛石から見て霊山「中山」は
方位角φは282.884373 °(282°53′3.74)(西90°だと102.884373)
となります(方位角は北:0度、東:90度、南:180度、西:270度。)
(カシオ計算機株式会社, ed. “2地点間の距離と方位角.” keisan, n.d. https://keisan.casio.jp/exec/system/1257670779 .)。
カシミール3Dでシミュレーションしても同じ方角で表示されます。
中山寺・卜部左近の星下り
枚方市旧茄子作村の茄子作村史は枚方市の中山観音寺跡と中山寺の関係を書いていますが、その中山寺の『中山寺由来記』元和二年七月九日「九日會式」(※1616年08月21日 by 国立天文台)では、七月九日夜半も何時しか過ぎける頃(※1616年08月22日時AM3時頃か)、播州三木の里の卜部左近が体験する中山寺星下り(三十三所の観音菩薩の御光臨)のお話しが掲載されています(→中山寺由来記)。
ステラナビゲーター11で夜空をシミュレーションすると、1616年8月22日AM3時39分33秒の中山観音寺跡・牽牛石から見た牽牛星が売布神社(御祭神:下照姫、天稚彦)上空を通過して紫雲山中山寺上空に沈もうとしています。下照姫は「淤登多那婆多(おとたなばた)」と夷振の歌曲を詠んだ女神、夫の天稚彦は日本の七夕の天稚彦草子(1)(2)(3)にも登場する記紀神話の神々です。
卜部左近の星下りの際に描写された楽の音とともに出現する様子は、天若御子が織女と共に登場する『うつほ物語』や『狭衣物語絵巻』等とよく似ています。
それぞれの星の位置は下記です。
牽牛石から見て中山寺は方位角φ278.03(西90°だと98.03)なので、中山寺上空にへ沈もうとしているのがわかります。牽牛星が中山寺上空に沈む情景は1月15日頃から8月15日頃の間は黎明の光で見えなくなります。
1616年08月22日AM3時38分40秒(西90゚・西270゚)
牽牛星(アルタイル,HIP97649) 方位 98.034゚ (278.034゚) 高度 2.310゚ 紫雲山中山寺上空
織女(ベガ,HIP91262) 方位 131.914゚ (311.914) 高度 7.936゚ 継体天皇陵と能勢の妙見山上空
たなばたのあとぼし(デネブ,HIP102098) 方位 124.705゚(304.705゚) 高度 30.842゚
霊山「中山」
紫雲山中山寺の背後の中山は『茄子作村史』では金龍寺と共に記載されています。茄子作にも金龍寺(白雲山金龍寺)がありますが宝塚市にも金龍寺(大雲山金龍寺)があり、そのほぼ真北が紫雲山中山寺の背後にそびえる中山です。中山の附近は磐座があり、霊場です。 中山から見た夏至の日の出の太陽は、平安時代の御所の内裏、比叡山、長命寺山の方向から昇ります。
また『中山寺由来記』元和二年七月「九日會式」最終日の七月十五日(1616年8月27日)のお盆を迎える前日(8月26日)の太陽は、中山観音寺跡の牽牛石から見て『茄子作村史』にも書かれた「中山」へ沈みます(方位角φ282.88°)。
1616年8月26日午後6時27分38秒 方位 102.585゚(282.585゚) 高度 0.002゚
2022年8月26日午後6時27分38秒 方位 102.529゚(282.529゚) 高度 0.153゚
太陽,ステラナビゲーター11(方位は西90゚・270゚)
星空と交野ケ原
七夕は星空を直接見るのではなく盥・桶などの水面に映した星合を鑑賞しますが、ステラナビゲーター11で上下反転させた星空と枚方市交野市の地図を 牽牛星を牽牛石へ織女(ベガ)を機物神社へ重ねると、かささぎであるデネブ(あとたなばた)に該当する場所は獅子窟寺の「王の墓」になり、かつ、銀河の天の川と平野を北上する天野川の流れは概ね一致します。 また、獅子窟寺王の墓と牽牛石の間の直線上に「天田神社」、本尊掛松が元々あった場所の「上の山の辻」(奥野平次. ふるさと交野を歩く. Vol. 里の巻. 交野古文化同好会, 1983:20-22. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9575256/21 .)、春日神社が配置されます。獅子窟寺には弘法大師の降星伝承(星田妙見山影向石略縁起)があります(片山長三, ed. 交野町史. 交野町, 1963:1463-1465. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3021409/777 .)。
(眞葛原雪. “地上に降りた北斗七星と天の川-皇統と神々の交野が原.” Life in Japan blog (旧 サッカー評 by ぷりりん), January 5, 2017. https://blog.goo.ne.jp/pririnsoccer1/e/fcb05a75e9057f989ee80635b7f324f7.)
交野郡と中山さん
交野市星田の光林寺は河内西国三十三所の第二十四番札所で、9月になると中山さんというお祭りで仲山観音をまつっています。西国三十三所第二十四番札所は紫雲山中山寺(江戸時代は仲山寺)です(片山長三, ed. 交野町史. 大阪府北河内郡交野町役場, 1963:1311. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3021409/701 .)。また交野市の龍王山は中山と呼ばれています(交野市史編纂委員会, ed. 交野市史. 交野市史編纂委員会, 1981:416. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9574928/234 .)。
たなばた八日八夜=七夕、天稚彦・死別の初七日
神話の「たなばた」の初出は、古事記の天若日子(日本書紀の天稚彦)の死を八日八夜、つまり七夕-いわば初七日-の間嘆き悲しんだ妻の下照姫の歌です。初日を7月7日夜、終了を7/15お盆のお昼と仮定すると、八日八夜=七夕は下記の様になります。
7/7夜☆☆-7/8日夕夜-7/9日夕夜-7/10日夕夜-7/11日夕夜-7/12日夕夜-7/13日夕夜-7/14日夕夜-7/15日(盂蘭盆会)
下照姫は兄・阿遅志貴高日子根神と亡夫・天若日子(天稚彦)を間違え、兄は怒り、下照姫は 「阿米那流夜 淤登多那婆多能(あめなるや おとたなばたの)……」 (日本書紀では「阿妹奈屢夜 乙登多奈婆多廼……」)と詠みます。
日本の七夕、天稚彦草子
亡夫の天稚彦は御伽草子の七夕(天稚彦草子)で海龍王=彦星として登場します。
(伊東祐子. “<天稚彦草子>の二系統の本文の展開とその性格 : 絵巻系・冊子系・赤木文庫旧蔵本・乾陸魏説話をめぐって.” 都留文科大学研究紀要, no. 65 (2007). http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/handle/trair/297.)
一年に一度、七夕とお盆
古事記の天稚彦と下照姫の出会いと死別と間違った"再会(兄を夫と間違える)"物語、御伽草子・天稚彦草子の天稚彦と長者の娘の物語の出会いと別離と再会と再別離と一年に一度の再会は、元々お盆の物語ではないか?と思います。
枚方市・交野市と七夕伝説
旧河内国交野郡枚方市・交野市・寝屋川市は七夕と関係すると云われるものが複数あります。(もう少し根源的なお話しもあるのですがまた別の機会に書きます)
天野川 昔から"あまのがわ"
機物神社(旧はたほこ神社。御祭神:天棚機比売大神(あまのたなばたひめおおかみ)=天棚機姫(あめのたなばたひめ(古語拾遺))、栲機千々比売命大神(たくはたちちひめおおかみ)=天萬栲幡千幡姫(日本書紀)=萬幡豐秋津師比賣命(古事記))※栲は梶の木の古名・梶の木の繊維で織った布・白たえ。七夕は梶の葉や五色の幡を飾る。
『四民月令』崔寔(126?~172?)「六月……至七月七日、當以作麹、必躬親絜敬以供禋祀」の禋祀(潔身齋戒以祭祀)は、『五畿内志』(1735)や『河内名所図会』(1780)に書かれた機物神社の七月七日の祭りの童男の潔斎と相似しています(下倉渉 . “刺謁・振贍・潔祀--『四民月令』に描かれた人と人との結びつき.” 東北学院大学論集 歴史と文化, no. 45 (2010): 41 – 56. http://id.nii.ac.jp/1204/00000006/ .)(守屋美都雄. “歲時記「四民月令」について.” 国民精神文化 8, no. 10 (1942): 52–94. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11029386/39 .)。
在原業平(825‐880)歌物語『伊勢物語』「渚の院」 の段の天の川ほとりでの歌 「〽狩り暮らし たなばたつめに 宿やどからむ 天あまの河原かわらに 我は来にけり (一日中狩りをして(日が暮れたので)、織姫に宿を借りよう。天の河原に私は来てしまったことだから。)…… 〽ひととせに ひとたび来ます 君待てば 宿かす人も あらじとぞ思ふ ((織姫は)一年に一度いらっしゃる君(=彦星)を待っているのだから、宿を貸す人もあるまいと思う)」 (フロンティア古典教室. “伊勢物語『渚の院』解説・品詞分解(2).” フロンティア古典教室, May 5, 2018. https://frkoten.jp/2018/05/02/post-2233/ .) その後の文学 〽あくがれしあまのがはらと聞くからにむかしの波の袖にかかれる 西行(1118―1190) 〽またや見む交野のみ野の桜狩り花の雪散る春のあけぼの 藤原俊成(1114-1204)
仙女(織女)の羽衣: 『五畿内志』(1735)『河内名所図会』(1780)では河内国交野郡の天の川の由来を曽禰好忠(923~931)の『曾丹集』(1)(2)(3)を引きつつ仙女伝説ゆかりと書いていますが、これは『曾丹集』の「毎月集」の七月七日の歌「たこのうらに-きつつなれけむ-をとめこか-あまのはころも-さほすらむやそ」を解説した、 顕昭(1130~1209年)『袖中抄』第十六巻の近江の余呉(丹後の与謝)の7月7日再開のたなばた天女とその子の子孫は河内国天の河にいるという記載によるものと思われます(→『袖中抄』第十六巻,顕昭)。 少なくとも12世紀後半には天野川には天女型の七夕伝承もあったことなります。(金子英世 . “曾禰好忠『毎月集』の特質について(二):七夕詠をめぐって.” 藝文研究 101, no. 1 (2011): 80–92. https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00072643-01010001-0080 .)(高松,寿夫. “浦島子と豊受神 -二つの『丹後国風土記』逸文の背景-.” 国文学研究, no. 110 (1993): 56–66. https://irdb.nii.ac.jp/00835/0002052786 .)
鵲橋 現在の鵲橋は近年建設されたものですが文学の世界では詠まれています。 「きんやかた野という所を廻るに……またはし多く過ぎぬる中に、これなんあまの川に侍るといふを見れば、橋やぶれてその形ばかりぞはつかにのこる 〽これやこの たなばたつめの こひわたる あまの川原の かささぎの橋 」 中務内侍日記,弘安八年(※1285年)九月條 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1668871/40
貝原益軒(1630-1714)『南遊紀行』では天野川上流の星の森に、織女と牽牛を祀った「星の社」があったと記録している(所在地不明)。
『金丸又左衛門役地絵図』金丸又左衛門(~1628) の頃、旧星田村は代官の金丸氏の元で仁正寺藩(滋賀県蒲生郡)市橋家の所領となりますが(近江蒲生郡志. Vol. 4. 蒲生郡, 1922:104,128. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965733/89 .)、その頃の古地図と思われる『金丸又左衛門役地絵図』の旧倉治村機物神社のあたりに「織女」、旧星田村のあたりに「牽牛」と書かれています。図の位置からすると旧星田村集落より北に書かれています(上田修. “七夕と交野 平成23年度 6月定例勉強会.” 交野古文化同好会(星のまち交野), June 25, 2011. http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/11-3/index.html .)。河童伝承がある川尻の池あたりかとも思われます(字名「神出来」あたり)。
能「天鼓」の犠牲の少年は 太平御覽「荊州星占……又曰:河鼓,一名三武,一名天鼓。」 『史書』天官書「牽牛為犧牲。其北河鼓。」を元に作られた謡曲と思われますが、 (李昉, ed. 太平御覽. Vol. 天部七・星下, 983. https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%BE%A1%E8%A6%BD/0007 .)(the能ドットコム. “天鼓(てんこ),” n.d. https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_021.html .)(田中允, ed. 謡曲集(日本古典全書). Vol. 中. 朝日新聞社, 1953:138. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1353537/74.) 『金丸又左衛門役地絵図』の牽牛がもし川尻の池だとしたら、河童伝承との関係がうかがわれます。 天野川(あまのがわ)すぐ横の川尻池には河童の伝承があります。元々は謡曲・天鼓の河で入水する少年のような犠牲の牽牛=河の童で、『河内名所図会』の機物神社の七月七日の童男はもしかすると天鼓=犠牲の牽牛の名残りなのかもしれません。方言「がたろ」は川で仕事をする人の意味もあります。 「昔から星田川尻池(現在臨港製鉄のある所にあった池)の伝説として伝えられているがたろ(河童)も……」(井戸桂二. “交野のことば.” 広報かたの5月号, no. 214 (1981): 15. https://www.city.katano.osaka.jp/docs/2021070900043/file_contents/1981-05-10.pdfか河
追記:雨乞いの河の神・河伯の犠牲になるのは乙女や牛馬でした。 河伯は河内国交野郡を本貫として帰化した百済王氏の初代百済国王・温祚王の父の東明聖王(朱蒙・鄒牟)の神話上の母方の先祖です。 「戊寅。羣臣相謂之曰。随村々祝部所教。或殺牛馬祭諸社神。或頻移市。或祷河伯。既無所効。蘇我大臣報曰。可於寺寺轉讀大乘經典。悔過如佛所訟。敬而祈雨。…… 八月甲申朔。天皇幸南淵河上。跪拜四方。仰天而祈。即雷大雨。遂雨五日。溥潤天下。〈或本云。五日連雨。九穀登熟。〉於是。天下百姓倶稱萬歳曰至徳天皇。 」 wikisource. “日本書紀/卷第廿四,” n.d. https://zh.wikisource.org/w/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%BB%BF%E5%9B%9B&oldid=383113. 「惟昔始祖,鄒牟王之創基也。出自北夫餘,天帝之子。母河伯女郎,剖卵降出生子。」 高巨連. “國岡上廣開土境平安好太王碑.” wikisource, n.d. https://zh.wikisource.org/w/index.php?title=%E5%9C%8B%E5%B2%A1%E4%B8%8A%E5%BB%A3%E9%96%8B%E5%9C%9F%E5%A2%83%E5%B9%B3%E5%AE%89%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91&oldid=2264197. 以上2023-05-05追記
牽牛石(牛石・牽牛石神) 継体天皇の実の陵墓といわれる今城塚古墳と、饒速日尊の天磐船伝承がある磐船神社ご神体との間に牽牛石がある中山観音寺跡があります。 緯度・経度→平面直角座標変換(土地家屋調査士中村浩司事務所. “平面直角座標 ⇔ 緯度・経度変換 with Google Map.” K’z lab, n.d. https://www.n-survey.com/online/gmap2.htm .) 1 345059.67462 1353541.76822 -127513.095 -37041.383 0.999917 +01353.28489 2 344719.79104 1353915.35044 -134308.685 -31639.378 0.999912 +01150.14504 3 344452.15986 1354135.54229 -138869.183 -28089.535 0.999910 +01029.50694
逢合橋 江戸時代の古地図では天ノ川橋
龍王山 頂上の八大龍王社は弘法大師が神泉苑で善女龍王を勧請した分霊といわれていますが(片山長三, ed. 交野町史. 交野町役場, 1963:1109. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3021409/600 .)(奥野平次. ふるさと交野を歩く. Vol. 山の巻. 交野市, 1981. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9574919/49 .)、善女龍王は八大龍王の娑伽羅龍王の娘で("娑竭羅龍王女"妙法蓮華經提婆達多品第十二)、日本の七夕『天稚彦草子』の天稚彦は彦星でもあり海龍王でもありますが、 海龍王は娑伽羅龍王の別名です(仏為海龍王説法印経(小川独笑. 大蔵経抜鈔. Edited by 岩佐静諦. Vol. 巻6下,7上,7下,附録. 蔵経書院, 1911. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/817957/33 .)(高楠順次郎 , ed. 大正新脩大蔵経. Vol. 15. 大正一切経刊行会, 1925:157. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3434909/87 .))。 龍王山と天野川をはさんで対岸の星田妙見宮には「織女石(たなばたいし)」があり、間には「雷塚古墳」があります。『天稚彦草子』のラストシーンと類似した配置です(大阪府立図書館. “七夕,” n.d. https://www.library.pref.osaka.jp/site/osaka/lib-zempon-zem23.html .)(サントリー美術館. “天稚彦物語絵巻,” n.d. https://www.suntory.co.jp/sma/collection/data/detail?id=612 .)。
1713年『和漢三才図会』では下照姫が摂津国高津へ乗って来た岩船を山頂に祀るとあります。能『岩船』では下照姫の夫・天稚彦へ雉を撃つよう促した天探女の乗り物と書かれています。摂津国風土記逸文でも岩船は天探女の乗り物と書かれていますが、元は奈良時代のものではなく『続歌林良材集』上(1677年)からの引用と判断されています(伊藤純. “研究ノート 摂津国風土記の逸文について.” 續日本紀研究, no. 274 (1991): 35–41. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/6076253/19.)。 (磐船神社の御神体は山頂ではなく天野川のすぐ脇に横たわっています。)
星田妙見宮の「織女石」(おりひめいし・たなばたいし https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563476/34 )は生駒山の山頂のちょうど真北にあります。 不思議な石で、継体天皇即位の樟葉宮は河内国交野郡の樟葉近辺にあると推定されていますが、実の継体天皇陵であると謂われている今城塚古墳と皇后手白香皇女陵墓の間に星田妙見宮の織女石と光林寺の星御前があります。どちらも弘法大師降星伝承の石です(片山長三, ed. 交野町史. 交野町, 1963:1463-1465. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3021409/777 .)。 今城塚古墳-光林寺・星御前-星田神社-星田妙見宮・織女石-手白香皇女陵墓 緯度・経度→平面直角座標変換(土地家屋調査士中村浩司事務所. “平面直角座標 ⇔ 緯度・経度変換 with Google Map.” K’z lab, n.d. https://www.n-survey.com/online/gmap2.htm.) 1 345059.67462 1353541.76822 -127513.095 -37041.383 0.999917 +01353.28489 2 344534.14557 1354042.91252 -137571.309 -29423.929 0.999911 +01059.69823 3 343408.33301 1355102.55247 -158739.520 -13698.213 0.999902 +00504.94715
追記:手白香皇女の陵墓は西山塚古墳だという説もあるので(平面直角座標 ⇔ 緯度・経度変換 with Google Map (n-survey.com))で計算してみました。西山塚古墳と西殿塚古墳は直線状に有るので、同じく今城塚古墳-光林寺・星御前-星田神社-星田妙見宮・織女石・龍王社-西山塚古墳は直線状に並びます。
1 344534.31259 1354043.13436 -137566.180 -29418.271 0.999911 +01059.57252
2 343412.32688 1355055.33165 -158616.189 -13882.070 0.999902 +00509.05293
3 345100.02838 1353542.15832 -127502.234 -37031.430 0.999917 +01353.06402
牽牛石批判について
2013年、元枚方市公務員の歴史学者によって牽牛石(牛石)等の七夕伝説は都市伝説という論文が書かれ、枚方市の住民の地域性が譏られました(→牽牛石伝説批判)。
片山長三が「牽牛石と名付けた」と誣られましたが事実ではありません。
枚方市以外の地域でも偽書は多いようです(→偽書と伝承)。著者は枚方市の公務員だったので、枚方以外の地域との民話伝承の定量的な比較は未実施ではないでしょうか?。
民俗学は現在オンタイムで生み出される伝承を研究テーマにしていることと(大北栄人, and 室井康成. “路上飲み対策にも恋愛の南京錠をかけるのも民俗。民俗学者と街を歩く.” デイリーポータルZ, September 21, 2021. https://dailyportalz.jp/kiji/walking-with-folklorist-01 .)併せて考えるに、 地域性云々の指摘は事実とは言えないように思われます。伝承・民話を産みだす人間の心(ゼーレ)の機序と現象は科学の時代の今も昔もたいして変わらないようです。
琉球国の尚豊王
1616年中山観音寺跡牽牛石神での出来事は、琉球国中山王府の尚豊王との再会と琉球国中山王府の無事祈願だったのではと考え始めています(まだ仮説の前の段階です)。エイサーの祖といわれている袋中上人は1609年尚寧王が薩摩藩によって江戸へ連れていかれた際にも交流があったようで、何か関係していたのではないかと考えています。
琉球のエイサーと念仏踊り
エイサーの元となったのは袋中上人が伝えた念仏踊りと言われています(九州国立博物館. “京都・檀王法林寺開創400年記念 琉球と袋中上人展 - エイサーの起源をたどる,” n.d. https://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_pre86.html .)。牽牛石がある旧茄子作村の本尊掛松は融通念仏宗中興の祖の法明上人が石清水八幡宮の神人と出会った場所で、念仏踊りの聖地のひとつです。それゆえに袋中上人が何か関係しているのではと考えています。
首里観音堂
「萬歳嶺慈眼禅院記 中山門之前、有峻嶺。名曰萬歳峰也……萬歴四十四年(1616年)丁巳之春、尚豊王、爲世子時、渡御薩州也。越厳父尚久公、誓曰。所希吾愛子尚豊、在薩州。……尚豊、闢此嶺之半腹、新講観音大士堂、以可崇敬矣。應此感耶、至於其冬此仲旬、無恙来朝矣。由此志願、明年戊牛之春、尚豊公、命有司、而鳩工聚材、堂肇落成矣。(琉球国由来記)」 (伊波普猷, 東恩納寛惇, and 横山重, eds. 琉球史料叢書. Vol. 1. 井上書房, 1962:210. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3005495/164 .) (首里観音堂HP)
三年後の1619年卜部左近が家族と共に星下りを体験しますが、 1619年琉球国中山王府尚豊王は首里尚家の菩提寺として霊芝山建善禅寺を再興し、薩摩藩によって江戸へ連れて行かれた際、紫雲山中山寺御本堂を1603年に再建した大阪城の豊臣秀頼(~1615)の元へ1610年一人で接見へ出掛けた天叟禅師へ捧げました(琉球國由來記),。 (伊波普猷, 東恩納寛惇, and 横山重, eds. 琉球史料叢書. Vol. 1. 井上書房, 1962:216-218. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3005495/167 .)(大本山中山寺. “堂塔伽藍・本堂,” n.d. https://www.nakayamadera.or.jp/about/dotogaran/hondo.html .)(かげまるくん行状集記. “建善寺跡,” n.d. http://www.kagemarukun.fromc.jp/page116b.html .)
また、卜部左近が亡くなった寛永十一年七月十五日(※1634年8月8日)の翌月寛永十一年閏七月九日(※1634年9月1日)、琉球国中山王府尚豊王の第一回江戸上りで徳川家光慶賀使・佐敷王子朝益の使節を二条城で引見します(木土博成. “<論説>琉球使節の成立 : 幕・薩・琉関係史の視座から.” 史林 99, no. 4 (2016): 525–557. http://hdl.handle.net/2433/240467 .)。
先祖崇拝と別離と再会の七夕
沖縄・奄美では今も七夕は先祖崇拝です(→琉球國由來記)。日本でも七夕は七日盆、先祖崇拝であるお盆(盂蘭盆会)開始の日です。七夕は元々は別離(死別含む)と死者との再会を望む物語なのではないでしょうか。牽牛石は再開祈願の場所だったのかもしれません。
交野とヤマトと琉球と津軽と百済(神話伝承における)
楠葉宮と郊祀
確実に史実の人物と辿れる継体天皇が即位した樟葉宮は、交野郡の楠葉近辺だと推定されています。
794年平安京を開いた桓武天皇は、延暦四年(785)延暦六年(787)河内国交野郡で先祖(昊天上帝・天神・父帝)へ郊祀しました(三好順子. “桓武朝の天神の祀り : 郊祀円丘の所在地はどこか.” 史泉 133 (2021): 1 – 14. http://doi.org/10.32286/00026197 .)。昊天上帝は天帝とも呼ばれます。
百濟国
桓武天皇の母・高野新笠の父・和乙継は百濟武寧王の裔(→続日本紀延暦八年十二月)、百済王氏の神話的先祖は「天帝」と河伯です(→好太王碑)。桓武天皇が大陸式の儀式を六国史に記録される規模で帰化した百済王家の本貫地の交野郡で行った要因は「先祖」にあるのかもしれません(大阪府教育委員会, ed. “『禁野本町遺跡』大阪府埋蔵文化財調査報告2013-6,” 2014. http://doi.org/10.24484/sitereports.17731 .)。
琉球国
1522年建立の首里の国王頌徳碑(石門之東之碑文)に書かれた舜天ですが 1543年に建立された首里の国王頌徳碑(かたのはなの碑)によると琉球国中山王府の王は舜天から21代目と書かれています。舜天は奄美・琉球の地域伝承や『中山世鑑(1650)』や『中山世譜(1701)』では清和源氏(河内源氏)鎮西八郎為朝公(源為朝(1139-1177))またはその子と書かれています。
1452年長虹堤(天照大神の勧請と長寿寺)と併せ考えると、河内国は琉球王朝にとっても先祖の地に該当するので祈りにむいている土地だと思われます。
琉球国と河内国交野郡の瓦器
(追記)薩摩平氏の阿多忠景は源為朝(1139-1177)を婿にとっています。忠景の本拠地の近くの持躰松遺跡から大量の中国製陶磁器が出土し、中国大陸や鬼界島(イオウガジマ)や肥前国との交易の拠点だったことがうかがわれます。その持躰松遺跡から和泉型・楠葉型の畿内産の瓦器がまとまった量で出土し、特に12世紀の河内国交野郡の楠葉型は顕著だということで、河内源氏の本主摂関家の領地の交野郡樟葉牧と薩摩-中国-鬼界島の関係性がうかがわれます(野口実. 列島を翔ける平安武士. 吉川弘文館, 2017,78-86. http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b280811.html .)。
首里城京の内跡から出土した鎧や兜も平氏源氏の武士の南行きと関係しているのでしょうか?(沖縄県立埋蔵文化財センター 2009 『沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書49:首里城跡』沖縄県立埋蔵文化財センター http://doi.org/10.24484/sitereports.21990 )。もしかすると阿多忠景の二女と源為朝の間の子孫が、保元の乱の後で忠景が貴海島(鬼界島)に逃亡して行方をくらませるおりに、共に南の島へ逃げた可能性はあるのかもしれません。
“平家貞の追討を受けた忠景は貴海島(鬼界島)に逃亡して行方をくらませており、そのまま南島に勢力を張ったものとみられ、彼の一党の活動が琉球諸島にまで及んだことは十分に予想されるところである。 奄美地方には平家の落人伝説が存在するが、それは阿多氏が平姓であることによるのではないだろうか。すなわち、忠景の薩摩本土脱出の事実が南島における平家の落人伝説の骨格を形成したのではないかと思われるのである。 いずれにしても、琉球の祭祀歌謡として知られる『おもろ』の中に以下のようなものがあることから、いつの時代にか、本土の合戦で敗れた武士がはるばる琉球に逃げのびたという事実はあったのであろう。 せりかくの のろの、 あけしの のろの、 あまくれ おろちへ、 よろい ぬらちへ、 うんてん つけて、 こみなと つけて、 かつおうたけ さがる、 あまくれおろちへ、 よろいぬせさへ、 やまとのいくさ、 やまとのいくさ、 (大意) 一隊の鎧武者が運天(現在の沖縄県今帰仁村)の港に上陸した。 勝宇岳(名護市勝山)の上には雨雲が横たわっている。 せりかく(地名)のノロ(祝女)、あけし(地名)のノロが、 その雨雲を乞い降ろして、武者の鎧をぬらした。 聞けば、その本国なる大和・山城は今いくさの世の中である。 鎮西八郎為朝の琉球入りは事実ではないが、荒唐無稽な俗説として簡単に片付けてしまうわけにはいかないのである。” (野口実. 列島を翔ける平安武士. 吉川弘文館, 2017,102-103. http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b280811.html .)
琉球国と集団遺伝学
旧石器時代に琉球へ到達した人類はどうも滅亡したようです。伊江島出土の2600年前の人骨のミトコンドリアDNAハプログループは西日本の縄文人と一致し、「貝の道」の交易ルートを介して往来があったと推測できるようです。人口が増大する貝塚後期(弥生平安時並行期)本土日本から徐々にハプログループD4を主体とする人々が流入、 グスク時代(11世紀後半頃)の開始期に南九州などから大規模な農耕民の移住があった可能性が指摘されているということです。喜界島の圃場整備事業に伴う大規模調査発掘で中世~近世の墓地が解析された結果、中世以降に喜界島や徳之島へ移住した集団は南九州の農耕民だったと推測されるということです。11~14世紀の徳之島産カムイ焼が南九州~石垣島等のグスク跡から出土することから、この交易ルートで奄美諸島から琉球列島へハプログループD4主体のグループが流入し、ハプログループM7aを主体とした在来集団と混血して現代の沖縄の遺伝的集団が形成されたとみられるようです(篠田謙一. 新版日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造. NHK出版, 2019,199-207. https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000912552019.html .)。 (追記2022-10-09)
津軽
子爵秋田氏の系図の先祖伝承(寛政重脩諸家譜巻六百三十一)によれば神武天皇東征時に津軽へおわれた膽駒嶽(いこまのたけ(生駒山))長髄彦の兄の安日の末裔が安東将軍-安倍貞任-十三湊の秋田氏の先祖なので、もともとは河内国という事になります。記紀神話では長髄彦が神武天皇と戦闘を始めるのは河内国大和国の生駒山山中ですが秋田氏の系図では"摂津国"膽駒嶽とあります。摂津国の住吉大社『住吉大社神代記』に書かれたご神域が生駒山とその周辺になっているからだと思われます。この神話的設定は妙本寺版の曽我物語冒頭にも見られます。
河内国交野郡と神話と国号「日本」
歴史学者の網野善彦は国号「日本」の研究の重要性を指摘していますが(網野善彦. 「日本」とは何か. Vol. 日本の歴史第00巻. 講談社, 2000.)(網野善彦, 上野千鶴子, and 宮田登. 日本王権論. 春秋者, 1988.)、日本神話の中の国号「日本」は河内国交野郡と結びついています。古地図(1)(2)の天野川岸の河上哮峯(岩舩山)が饒速日尊が天降りた河内國河上哮峯の神話のモデル候補地です。(南河内にも候補地がありますが『住吉大社神代記』神南備山本記の「北限 饒速日山」の記載により北河内川が有力です)
「饒速日命乘天磐船而翔行太虛也、睨是鄕而降之、故因目之曰「虛空見日本國矣。」」(日本書紀 http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_03.html )
「饒速日尊襄㆓天神御祖詔㆒乗天磐船而天㆓降㆐坐於河内國河上哮峯㆒則遷㆓坐於大倭國鳥見白山㆒所謂乗㆓天磐舩㆒而翔㆓行於大虚空㆒巡㆓睨是郷而天降坐矣即謂虚空見日本國是歟㆒」(先代旧事本紀. Vol. 三, 1644. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2553447/52 .)
百済と日本
『彌軍墓誌』(儀鳳三年AD678年頃)にて刻まれた「日本」は「東の~」という意味でこの碑の場合は百済国を示すとの事です(冨谷至. 漢倭奴国王から日本国天皇へ. 臨川書店, 2018:192-198.)。百済国滅亡後に百済王氏が帰化した本貫地は河内国交野郡です。
日本神話上の設定では饒速日命が天磐船で天降り「虛空見日本國」と呼んだ地である河内国大和国は「日向国から見ての東」で、神武天皇東征を呼び掛けた鹽土老翁の言う「東有美地(東の美(うま)し国)」は「天磐船而飛降者」の国、上記の饒速日命が降りた地です。
「抑又聞於鹽土老翁、曰『東有美地、靑山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』」 (日本書紀 http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_03.html )
神話伝承上、河内国交野郡は先祖への祈りの場所となる複数要因を持っています。それゆえ1616年卜部左近の中山寺星下りの物語は、琉球王家の先祖ゆかりの場所での王子の再会・帰国の祈願と関係があったのでは?と思うのです。
伝承と歴史-民俗学と歴史学
民俗学が研究対象としている心の産物「伝承・民話・伝説・神話・神威譚・霊威譚」を教育現場で取り上げる事に強い抵抗感を示される有識者が増えているように感じますが、 歴史学の研究対象である「歴史的史実」のみが教育現場で教えられるべき内容かどうかは、個々人の価値観の相違だと感じています。
現代人にとって民俗学と歴史学の研究対象の相違は、子供でも充分認識可能だと思います。
交野郡の七夕の世界は文学の世界の中にあります。日本古来の文学の世界観を学ぶのはとても重要です。特に年少者にとっては童話もまた大事な教材であると考えています。
七夕伝説
枚方の民俗, 近畿民俗会,1972
「五 伝説…… 3 石の伝説…… <中山の牛石>茄子作の西方山中に中山観音寺跡という所に牛石という大石が二個あり、一を雄石、他を雌石という。毎年正月元旦に黄金の鷄がこの上に現われてトキをつげるという。また、この牛石は牽牛星で天ノ川をへだてて倉治(交野市)の機物神社の織姫に対している。両者は七夕に天ノ川の逢合橋で逢うという。 なお、摂津の中山寺はこの中山から移ったもので、ここが元だそうである。」 (近畿民俗会代表理事高谷重夫. 枚方の民俗, 1972:98-99. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9572549/57 .) 「あとがき 一 本書の資料は四六年の秋から冬にかけて、現在枚方市に併合された旧町村より一つもしくは二つの部落を選び調査したものを主としている。…… 一 右の調査なは近畿民俗会員の山口……米谷……の諸氏ならびに高谷が当たった。 一 ……雑誌『郷土研究』第二巻(第八・一二号)、第三巻(第一・四・六号)、第四巻(第一・三・六号)、-大正三~五年-に連載された岡市正人氏(枚方市出身もと茨木神社社司、故人)の茄子作民俗の報告(文中「岡市報告」と略称)、片山長三氏著『長尾史』・『津田史』、枚方市教育委員会編『郷土ひらかた』、井上正夫著『大阪府全誌』(巻四)の資料も利用したが、それらの資料については出所を注記した。 一 枚方の民俗についてなお述べるべき点が少なくないが、紙数の関係もあって今回はこれだけに限った。それぞれの民俗について地域が注記されているが、これはその民俗をたまたまこの地で聞いたということであって、この地以外にないということでは決してない。」 (近畿民俗会代表理事高谷重夫. 枚方の民俗, 1972:123. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9572549/69 .)
石鏃,片山長三,1959
「この神社に対して川をへだてゝ牽牛星をまつる茄子作の中山寺がある。それはすなわち当寺跡に残された牛石で、牽牛石神として崇拝したと伝えられている」 (片山長三. “茄子作中山観音寺遺跡.” Edited by 交野考古学会,桜井敬夫. 石鏃, no. 14 (1959):7.)
茄子作村史
「茄子作の……の手記には「中山観音寺、村の西方字中山及観音原に在り、奈良時代の創造にて、釈尊寺・金龍寺等、其他三宝院・奥の防(坊)・阿舎(闍)利(坊)あり、皆、同一の伽藍地帯内の巨刹たりしが、南北朝戦乱の時、婁(屡)々兵燹(へいせん)に罹り、皆敗(廃)亡して、遂に復旧の運なく荒廃に帰(し)たり、只僅に字名と巨岩二個、扇形の手洗石、併に石仏五体を残存、其俤を偲ぶ、其一石は形牛の臥(ふせ)るに似(る)により、牛石と唱へ、他の一石を置石と云ふ、今も其附近に瓦石の残片を発掘す、又、北方より登る道路の跡も森林中に存在せり」と記し、すぐにつづく「附記」では「世伝に、摂津国中山寺は元此地に在りしが、奈良の都、山城京都に移りしと共(に)、彼地に移転したりしと云。西国観音霊場記に、中山の手前に金龍寺と云所あり、是迄御出ありて、山山を御覧あるに、紫雲靄(たなび)きた(る)山あり、是そ霊場なりとて、分登り玉ひて御覧あるる(衍)に、峯三あり、三尊の形を表(し)たる山々なりとて、中の峯に尊体を安置し玉ふ云云、史実詳ならす、伝説の儘附記す」とある。」 (枚方市史編纂委員会, ed. 枚方市史. Vol. 2. 枚方市, 1973:289-299. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3009452/168 )
中山寺由来記
中山寺由来記……其三 九日會式の由来 春期の無縁経と共に中山の両大会式と稱せらるゝ九日会式の濫觴は彼の花山法皇が河州(河内国)石川寺佛眼上人、播州書寫山性空上人、当山辨光僧正等を従えて三十三所観音霊場御再興の挙あり、此御巡礼は永延二年の春に始まり御一巡の後ち御礼講讃として其年の七月中山寺に御登山遊ばさる、是に於て当山は其月九日より十五日まで一週日の間修法ありけるが九日後夜(十日午前三時の頃)(※988年08月24日AM3時頃)、種々の奇瑞ありて諸人随喜讃嘆せざるはなし、此修法年々の例と為りて後世に伝わり「中山星下り」又「千日詣で」の名あり、 降りて慶長元和のことなるが播州三木の里に卜部左近と云ふ修行者あり初めは儒学を究め晩年仏学に志し深く観音真言を信じ遂に郷関を出で三十三個所の観音霊跡を巡礼し元和二年七月九日(※1616年08月21日)中山に来りて九日会式に遇ふことを得、一心に真言を誦して観音を念じけるが夜半も何時しか過ぎける頃(※1616年08月22日時はAM3時頃か)、四辺風静まり気爽かに中天忽ち明晃々として瑞雲搖曳と見る間に、何れよりか微妙の音雅楽を奏づるに似たり、仰ぎ見れば三十三個所の観音前に在り無量百千の菩薩前後左右を擁して其壮麗譬ふるに物なし、やがて中山観音自ら金鑰(※きんやく・黄金の錠)を執りて極楽浄土大殿の門扉を開き給へば諸尊辞譲して其内に入り給ふ、左近も亦其後へに付して門内に入るを得たるが余りの有難さに妻子をも伴ひ拝せしめんと出づれば門扉既に閉じて又入ることを得ず、然れども面のあたり此の荘厳を拝せる左近の感喜は譬ふるに物なし、是より深く仏説の虚ならざるを信じ乃ち除業障山の麓に草庵を結びて永眠の地と為し妻子と共に日夜観音真言を誦す、 其後三年にして七月十日の旦た(※1619年08月19日明け方か)妻子も亦観音の示現を拜したれば今は只浄土往生の祈願あるのみと遂に草庵の戸を閉じて人と面せず斯くの如きと二十余年妻子相継で逝き寛永十一年七月十五日(※1634年08月08日)左近も亦其末子小市郎と共に永眠す、永眠の日最後の正念近づけりとて村里の人を招き寄せ年来の厚意を謝し且つ観音霊験の仔細を語りて仏像経巻什器一切を分ち頒ち後に斎戒沐浴し日没に端座合掌し誦念高らかに逝きたり、是より九日会式益々盛んにして殊に中山観音は極楽浄土の「鍵とり」など伝えられたり、此卜部左近が観音に導かれて極楽界の光景を感得せるは左近自身に図して其頃参詣の諸人に示したるが所謂「感得の曼陀羅」にて九日会式には之を掲げて諸人に示さる 又此九日会式を「星下り」と名づくるは三十三個所の観音此夜中山に影嚮(ようごう)せらるゝや、諸人にして其姿を見る能はざるものも恰も星の飛び来るが如くに拝せらるゝを以って中山星下りの異名を以てするなりと (紫雲山中山寺. 中山寺由来記. 長尾村 (兵庫県): 紫雲山中山寺, 1912:26-28. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/819692/19.).(旧字体を新字体へ修正・送り仮名も一部修正,西暦への変換は国立天文台暦計算室"日本の暦日データベース" https://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/caldb.cgi による)
『袖中抄』第十六巻,顕昭
「よこのうみにきつヽなれけんおとめこか あまのはころもほしつらんやは 顕昭云これは曾丹三百六十首中に七月上旬の歌なり 歌の心は昔近江のくにヽよこのうみに織女のおりて水あみけるに そこなりけるおとこゆきあひてぬきおけるあまのはころもをとりたりけれは たなはたえかへりのわり給はてやかて其男の女になりてゐにけり子共うみつヽけて としころになりにけれとももとの天上へのほらんの心さしうせすしてつねにはねをのみなきてあかしくらしけるにこの男の物へ行けるあひだにこのうみたる子の物の心をしるほとになりたりけるかなにことに母はかくなきたまふそといひけれはしかしかとはしめよりいひけれは 此子父のかくしおきたりけるあまのはころもをとりてとらせたりけれは母よろこひてそれをきてとひのわりけりのほりける時に此の子に契りける事は我はかヽる身にてあればおほろけにてはあふまし 七月七日ことにくたりて此うみの水をあむべし其日にならはあひ待へしとて母も子もともに別の涙をなんなかしける さて其子孫は今まてありとなむ申つたへたる或人の申しは河内国天の河にこそさることはありけれ其たなはたの子孫いまにかうちにありと申しかと曾丹かよめるは中比の人たしかに申ける事にこそうたかふへからす遠江にも河内にもともにありけることなるへし」 (顕昭(1130~1209)『袖中抄』第十六巻; 本居豊頴, and 室松岩雄, eds. 歌学文庫. Vol. 1. 法文館書店, 1910:210-211. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1883913/175 .)
七夕の民俗
琉球國由來記
「琉球國由來記……七月 七夕行幸 七夕、行幸於圓覺寺・天王寺・天界寺・大美御殿、爲先王御拝也。……尚眞聖王、圓覺寺□御建立以来、毎年盂蘭盆前、御神拝有之歟」(伊波普猷, 東恩納寛惇, and 横山重, eds. 琉球史料叢書. Vol. 1. 井上書房, 1962:29-30. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3005495/78.)
牽牛石伝説批判
椿井文書,2020
「片山長三によって「牽牛石」と名付けられた石については、昭和四七年(一九七二)発行の『枚方市史』第二巻において、大阪大学教授で古代史研究者の井上薫が詳細に説明している。これらの説を引用するなど同意を示す研究者はほぼいないが、一部の研究者によるお墨付きの有無が、定着するか否かの第三の岐路となるようである。そして、ここまでくると、行政が町おこしに活用するのは時間の問題となる。」(馬部隆弘. 椿井文書. 中公新書, 2020:222-223.)
茄子作の村落秩序と偽文書,2013
「それからしばらくして、中山観音寺を発掘した片山長三氏は、……『茄子作村史』や田中氏の見解を拡大解釈して、「牛石は牽牛石神として崇拝したと伝えられている」とするのである。」そしてそれを裏付けるように、周辺には天体信仰が多いことを指摘し、有力な根拠として、天野川を挟んで牛石の対岸には織女星を祀るという機物神社(交野市倉治)が存在していることをあげる。このように片山氏は、対照する織女を北東に約五kmずらし、夜空を地上に落とした「地上絵」を描き出した。……このように、片山説の根拠は何一つ確実なものはなかったが、疑問が唱えられることもなく、牛石は「牽牛石」としての道を歩み始める。」 (馬部隆弘. “茄子作の村落秩序と偽文書(下).” 枚方市史年報, no. 15 (2013): 22.) (馬部隆弘. 由緒・偽文書と地域社会. 勉誠出版, 2019:253-254.)
枚方の歴史,2013
「同様に、少なくとも昭和二十八年(一九五一)までは何ら伝承のなかった中山観音寺跡の「牛石」が[寺嶋、一九五一年、六四一頁]、昭和三十四年(一九五九)に同寺跡を調査した片山長三氏によって「牽牛石」と名付けられると[片山、一九五九年:枚方市史編纂委員会、一九七二年、二九一頁]、最近になって七夕の伝承地だと言う人が増えている。歴史的にみれば、平安時代から江戸時代にかけて枚方市域に特別な七夕伝承地とされるものは全て「都市伝説」の類といってよい。 偏狭な郷土愛や単なるお国自慢から史跡が生み出されることはどこでもよくある話だが、狭い範囲にこれだけ集中するのは全国的にみても非常に珍しい。しかも現代になっても脈々と続き、こうした史跡に基づいた友好都市関係まで結んでしまうのだから、もはやこれは地域性といっても過言ではなかろう。事実、次節でみるように、この地域で偽文書が多用されるのは戦国時代まで遡りうるのである。 こうした歴史の改竄は、科学的な現代歴史学の範疇で捉えようとすると、負の側面しか見出らない。ただ、その活動の前提として一定度の知識は必要であるし、それを蓄積するには金銭的・時間的余力がなければならない。ここから、生活水準や知識水準の高さを評価することは許されよう。それを背景として、この地域では利益獲得や宣伝のためには手段を選ばないというしたたかな気質が、伝統的に培われてきたのである。」 (馬部隆弘. 枚方の歴史. Vol. 2. 松籟社, 2013:117-118.)
偽書と伝承
吉村茂樹,古文書学,1957
「またたとえば摂津国の多田院(源義仲の廟)が源氏崇敬の社であったところから、それに付会した偽文書が多く蔵されているが如き、また丹波国の大江山の附近に源頼光が大江山の鬼征伐の時に作った祈願文と稱せられるものが種々伝存されているが如き、また平清盛・源頼朝・同義経等の如き史上に有名な人物に関するものは勿論のこと、その他いろいろな人物や場合の偽文書が多く伝存されているが如き、それらの偽文書は、その人物の敬仰された所以乃至その後世におよぼした影響、さらにそれらが何時代にまたいかなる理由によって作成されたかというようなことについて、眼に見えぬ或る物をわれわれに暗に教えてくれるのであって、それらはすなわち偽文書がその裏に秘めているいわば一つの歴史事実なのである。したがってそれらの偽文書がたとえその表面に荒唐無稽なことをあらわしているとしても、それらはこれをただちに破棄すべきではなく、むしろその裏に秘めているなんらかの歴史事実に着目すべきであって、そこに偽文書は偽文書なりにその意義が存するわけである。ところがここに注意するべきは、偽文書は必ずしも意識して故意に出来たものばかりではないということである。たとえばその原本はたしかに真文書であったとしても、それがはやくに散失して、その書写の案分乃至複本のみがわずかに伝存しているというような場合において、その内容には勿論十分な史的価値を認め得るとしても、これを真文書として取り扱うことの決して許されない場合もあるが如きである。」 (吉村茂樹. 古文書学. 東大学術叢書, 1957. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2987698/86 :165-166.)
高野新笠
続日本紀
「壬午,葬於大枝山陵。 皇太后,姓和氏,諱新笠。和氏,百濟武寧王之子-純陁太子之裔也。居大和國城下郡大和鄉,因地制姓也。贈正一位-乙繼之女也。母-贈正一位-大枝朝臣-真妹。后,先出自百濟武寧王之子-純陀太子。皇后,容德淑茂,夙著聲譽。天宗高紹天皇龍潛之日,娉而納焉。生今上。桓武帝、早良親王、能登內親王。寶龜年中,改姓為-高野朝臣。今上即位,尊為皇太夫人。九年,追上尊號,曰-皇太后。其百濟遠祖-都慕王者,河伯之女感日精而所生。皇太后,即其後也。因以奉諡焉。」 (續日本紀 巻四十 桓武天皇,延暦八年十二月)
好太王碑
「惟昔始祖,鄒牟王之創基也。出自北夫餘,天帝之子。母河伯女郎,剖卵降出生子。」(好太王碑)
上鳥見路
「嘉禎二年1235年春日若宮文書に、磐船越の道(今の磐船街道)を上鳥見路(かみつとみじ)と記しているが」(1120,交野町史,1963 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3021409/701 )
住吉大社神代記
「住吉大社神代記……神南備山本記 四至 東限膽駒川。龍田公田。 南限賀志支利坂。山門川。白木坂。江比湏墓。 西限母木里公田。鳥坂至。 北限饒速日山。」(田中卓. 住吉大社史. Vol. 上巻. 住吉大社奉賛会, 1963. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3005051/138.)
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