天野川(あまのがわ)に架かる大阪府交野市旧私部村逢合橋は七夕伝承ゆかりの橋ではなく、1321年融通念仏宗第七代・法明上人(1279~1349年)と石清水八幡宮神人が出会った縁起の場所「合逢之茶屋」由来と云う最近の説ですが、史実はどうだったか橋の記録が無いのでわかりません。(1945年頃の航空写真と明治44年の地図・今昔マップ)
1540年『融通大念佛龜鐘縁起』での法明上人と八幡大菩薩神人が合った場所は地域名「(※河内国)かた野」でした。
1666年頃『大源山諸仏護念院融通念仏本寺住持世譜』では「(※河内国)交野(かたの)茄子作合逢茶屋」でした。
1681年『大和名所記』では「河内国なすづくりの茶屋」でした。
1705年頃『大念佛寺記録』では「河州(河内国)交野(かたの)郡茄子作里」で、その時にご本尊を掛けた松は「本尊掛松」とあります(下記に引用)。
逢合橋は合逢茶屋ゆらい説
1666年『大源山諸仏護念院融通念仏本寺住持世譜』にて書かれた1321年法明上人(1279~1349年)の縁起を元にした説です。
“逢合橋は融通念仏宗の法明上人と石清水八幡宮の使者が互いにばったり出会ったという伝承にちなんで名付けられた橋で、男女の出会いとは無関係である。”(馬部隆弘. 椿井文書. 中公新書, 2020:220.)
“いうまでもなく、これは法明と石清水の使者がばったりと出会った場所にちなんで名付けられた橋である。事実、寛文六年(一六六六)の「大源山諸仏護念院融通念仏本寺住持世譜」では、両者が出会った場所を「交野茄子作合逢(ママ)茶屋」としている。(※参照文献;『堺市史』続編第四巻、七頁 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3022964/36 )”(馬部隆弘. “茄子作の村落秩序と偽文書(下)-近現代の修史事業と伝承-.” 枚方市年報, no. 15 (2013): 23.) (馬部隆弘. 由緒・偽文書と地域社会. 勉誠出版, 2019:255.)
疑問点
「逢合橋」がいつから存在していたのか記録が無い(昭和7年に今の橋は建設された)
逢合橋は江戸時代の地図では「天ノ川橋」と書かれていたという指摘がある
1321年法明上人と八幡宮神人の出会いから「逢合橋」が名づけられたなら、「逢合橋」の名前が700年間記録に無いのは不可解
16世紀『融通大念佛龜鐘縁起』の法明上人が交野で八幡大菩薩社務神人と出会うという伝承から、17世紀『大源山諸仏護念院融通念仏本寺住持世譜』の法明上人が交野茄子作合逢茶屋で八幡社務神人と出会うという伝承へ変容した際に「逢合橋」と名づけられたなら、江戸時代の古地図に「逢合橋」と書かれていない点は不可解
交野郡内では17世紀『大源山諸仏護念院融通念仏本寺住持世譜』(堺市花田町)の「合逢之茶屋」での出会いの伝承の記録は今のところ見つけられていない
出会いの場所が伝承の記載と違う(逢合橋は縁起の旧茄子作村ではなく旧私部村)
あいあい橋という名称の橋は多い
逢合橋の「逢合」と合逢之茶屋の「合逢」は違う
石清水八幡宮から茄子作村へ行くルートは東高野街道が早く逢合橋は通過しない
旧茄子作村には茶屋前という字名があり、縁起には茄子作村と書かれているから、私部村の逢合橋よりも縁起に書いてある茄子作村の茶屋前の方が伝承候補地としての優先順位は高くなる (吉田晶子. 枚方市民俗文化財調査報告4 川越村. 枚方市教育委員会, 1996:39.)
逢合橋から下流の旧茄子作村対岸には下茶屋という地名がある (井上吉次郎. “茄子作の宮座.” 近畿民俗, no. 8 (1951): 116–122. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/6045990/2 .)
影響があったと仮定しても、橋梁の名称「逢合橋」が先か「合逢茶屋」が先かわからない。縁起なので空想上の茶屋かもしれない。
16~17世紀頃既に「逢合橋」が存在した可能性もあれば、綿作や明治中頃から交野郡で非常に盛んになる養蚕業に沿う形で七夕信仰が七日盆から織女信仰へと変化して「逢合橋」と呼ばれはじめた可能性等もあります。原田式力織機を普及させた旧私部村(現交野市)の原田元治郎は製糸工場や原田式織機製造所を設立しています。(片山長三, ed. 交野町史. 交野町, 1963. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3021409/528 :964-970.)(枚方市史編纂委員会, ed. 枚方市史. Vol. 4. 枚方市, 1980. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2991105/91 :133.)
原田式タオル織機 (文化遺産オンライン)
“綿織物用で初めての動力織機は、明治29年に愛知県の豊田佐吉が発明した蒸気による力織機でしたが、大阪では明治36年、原田元治郎(1859―1945)が、綿織物用の力織機を発明しました。 ……原田式力織機は全国的にも珍しい全鉄製の力織機でした……木製と鉄製の混製にすることで力織機の低価格化を実現させ、原田式は泉州(大阪南西部)では豊田式を上回る普及をみせました……” (国立公文書館. “原田式力織機の発明(原田元治郎).” 公文書にみる発明のチカラ, 2011. https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hatsumei/contents/27.html .)
逢合橋
「あいあい橋」は東京都千代田区神田三崎町、埼玉県日高市梅原、大阪市中央区道頓堀 にもあり、源頼朝と北条政子が出逢った伝承の橋の名前が「逢初橋」であるように、逢~等類似の橋梁の名称はよくあるようです。
現在の逢合橋
大阪府交野市の逢合橋は昭和7年(1932年)建設されたようで、以前はどうも簡易的な橋(八ツ橋?)であったようです。 奥野平次氏(交野市古文化同好会会長・交野市文化財事業団理事)が書かれた通り、天野川(あまのがわ)にかかる橋を何時とはなく誰かが逢合橋と呼びはじめたのかもしれません。
“先のコンクリートの「逢合橋」は昭和七年にできたものです。それまでは太い材木が東から西に並んでいました……あたたかくほれぼれとする「逢合橋」、七夕にちなむこんなうまい名称をだれがつけてくれたのでしょうか” (奥野平次,天の川七夕星まつりの会. 交野ケ原と七夕伝説, 2000;21.)(奥野平次. ふるさと交野を歩く. 里の巻. 交野古文化同好会, 1983. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9575256/20 :18-21.)
口承は地域全てのものが文字記録として残されるわけではないので、1971年採話された逢合橋の七夕ゆかりの物語がいつから存在したのかは不明です。(「黄金の雞」は全国各地でみられる金鶏伝説です。)
“<中山の牛石>茄子作の西方山中に中山観音寺跡という所に牛石という大石が二個あり、一を雌石、他を雄石という。毎年正月元旦に黄金の雞がこの上に現れてトキをつげるという。また、この牛石は牽牛星で天ノ川をへだてて倉治(交野市)の機物神社の織姫に対している。両者は七夕に天ノ川の逢合橋で逢うという。なお、摂津の中山寺はこの中山から移ったもので、ここが元だそうである。” (近畿民俗会代表理事高谷重夫. 枚方の民俗. 枚方市, 1971. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9572549/57 .)
江戸時代の逢合橋は土橋で1830年地震で傾いて仮橋が架けられたと記録されていますが、今の逢合橋の前身が1830年傾いた橋なのかそれとも傾いた橋の上流か下流に架けられた仮橋なのかも、今の場所にいつから在ったかも、名前の変遷も不明です。
“天保元年(1830年)七月二日……大地震……天野川の逢合橋は土橋だったが、傾きだして危険だから別に仮橋をかけるというしまつ” (片山長三, ed. 交野町史, 1963. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3021409/265 .)
天ノ川橋
1762年『私部村田畑絵図帳』の古地図で「逢合橋」は「天ノ川橋」と記録されていると交野市文化財事業団上田修氏は指摘されています。このあたりがよくわかりません。
新天野川橋
「新天野川橋」は旧茄子作村と旧下茶屋の間に架かっています。もしも旧私部村の逢合橋の江戸時代の名前が「天ノ川橋」であれば現・新天野橋の名前は別であった可能性が高いと推定できますが、現・新天野川橋の江戸時代の名前も元々の場所が現在の場所だったのかもわかりませんでした。
融通大念佛龜鐘縁起(天文九年,1540年)
天文九年(1540年)『融通大念佛龜鐘縁起』では、法明上人と八幡宮の神人が出会った場所は「かたの(交野・片野)」という地域名だけ書かれています。
一、融通大念佛龜鐘縁起 西光寺所蔵融通大念佛龜鐘縁起……故に御本尊法花経鐘幡縁起等の御寶物行方しらす悉失卆、然所やはた八幡大菩薩社務神人地下人等の夢に、融通大念仏の霊寶悉社内にあり、急き取出し深江の法明上人に渡し申せとの御告あり、……則神勅にまかせ御寶物を取もちて、法明上人江と交野をさしてくたり給ふ、又法明房へも夢に彼靈寶をあんちし、良忍上人の位をつき融通大念仏宗を再興し給へとの御告有、法明房ふしきの事なり先社参申へしとて漸かた野まて迠のほりたまふところ、神人ホ互に行合(ゆきあい)給ふ、則問云、深江へハ何方へ行候そ、又彼在所に法明上人と申御方御座候哉、法明房答給ふ様、我ハ深江の法明と申在家入道にて候、更に上人と申御方ハ、御座なしと被(レ)仰けれハ、神人の云く、扨ハ疑なし、御身の事なるへしと、八幡宮より御告の旨有のまゝ申、御寶物等渡し申へきとなり、其時法明房、如仰我等も八幡大菩薩より御告有、忝さのまゝまつ社参と志是まて参候ところに、又神慮の御使とて下らせ給ふ、さてハ夢想疑なし、されともかゝる在家入道の身としていかてかたやすく上人の位にハ上るへきと堅く辞退ありけれハ、是はより津稱ならぬ御苛瑞なれハ神慮をいかゝ背き給ふへきと、御寶物一一に上人の御前にそなへ申されけり、法明房も神勅にまかせ悉く請取たまひし所なるゆへに、表先例いまに毎年霜月にかたの下これあり、……御舟は既に幡(播)磨の地に着かぬ……”(財団法人元興寺文化財研究所, ed. 法会(御回在)の調査研究報告書, 1983:25.)(柏原市史編纂委員会, ed. 柏原市史. Vol. 1. 柏原市, 1969. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9573315/50 :78-81.)
1666年「大源山諸仏護念院融通念仏本寺住持世譜」
『大源山諸仏護念院融通念仏本寺住持世譜』(「沢地利三文書」(堺市花田町))は下記です。 堺市花田は第四十三代舜空上人の出身地です。
“二 沢地利三文書 〇堺市花田町…… 三 寛文六年(※1666年)十月十五日 大源山諸仏護念院融通念仏本寺住持世譜…… 開山良忍上人者 生国者尾刕冨田ノ庄、七歳出家、寛治弐…… 中興法明上人者 生国河刕若江郡深江村之庄、則広目天王ノ化身、父深江ノ神主、母和刕平郡郡信貴山毘沙門天王ノ神主也、…… 然処矢和多八幡社務神人之夢、融通大念仏ノ本尊幷霊宝悉有社内、急取出シ深江ノ法明上人渡シ申トノ有御告、神人不違御夢想、深江法明上人江志シ交野茄子作合逢茶屋迄持来、又タ法明房夢中彼霊宝請取、良忍上人之位次大念仏ノ可成上人トノ有御告、依之法明房交野迄有上着、彼合逢之茶屋ニテ神人ト行逢イ、霊宝ヲ請取り、大念仏之中興ト成リ給イ、…… 四十七世忍通上人 生国京都三条西家、享保六辛丑八月五日遷化” (堺市. 堺市史. 続編. Vol. 4. 堺市, 1973:7~11. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3022964/36 .)
『大和名所記』延宝9年(1681年)
『大和名所記』では「河内国なすづくりの茶屋」とあります。
中興開基法明上人は摂津の国深江村の俗なり 男山八幡菩薩の神託にまかせ山城国におもむきしが河内国なすづくりの茶屋にして人あまた伴ふにあひけり それがいふやう翁はいつくにか行 深江村の法明上人といふめるをしれりや しらざりけるにや 翁聞てさればさある上人は侍らず 法明といふは我名にて侍る 我昨夜瑞夢ありし程に男山八幡宮にまうでなんとおもひたち侍れ……さればこなたやうのものは男山八幡の神人なり 昨夜あまねく夢見けるは 八幡の社内に融通念仏の祖師良忍おさめられし一仏十菩薩の画像 ならびに亀鉦鼓持経の法華などあり ("大念仏宗大和国之本寺(法明上人)", 林宗甫. 和州旧跡幽考. Vol. 4, 1681. https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_04873/index.html .(37こま).) ([林宗甫 著] ほか『大和名所記』,豊住書店,1977.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9573958/1/78)
本尊掛松の縁起
1705年『大念佛寺記録』(徳融寺(奈良市)所蔵,大念仏寺四十六世上人大通(~1688年))には本尊掛松伝承が書かれています。(奥野平次. ふるさと交野を歩く. 里の巻. 交野古文化同好会, 1983. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9575256/21 :20-22.)
“ニ、大念佛寺記録 徳融寺所蔵 摂州平野郷町 融通念佛宗 惣本寺大源山諸佛護念院 大念佛寺 吾カ宗元祖ハ者、良忍上人尾州智多郡冨田ノ産レ、幼年ニ而登リ(㆓)叡山ニ(㆒)…… 第七世 中興法明上人 此上人ハ者河州深江之生レ、従リ(㆓)若年(㆒)登リ(㆓)高野山二(㆒)……於(㆓)千手院谷真福院ニ(㆒)落髪シ刀一對當山ヘ送ル 久ク修ス(㆓)密法ヲ(㆒)後チ、生国深江ノ里ニ蟄居、専ヲ行ス(㆓)念佛三昧ヲ(㆒)、旹元享元年十一月十五日(※1321年12月4日)ノ夜夢定中ニ八幡大士有テ(㆓)来現(㆒)告テ曰ハク、……再ヒ継キ(㆓)於絶風ヲ(㆒)、建テ(㆓)融通ノ法幢ヲ(㆒)、……翌十六日為(㆓)社参ノ(㆒)出ツ(㆓)草庵ヲ(㆒)、於(㆓)同州交野郡茄子作里ニ(㆒)逢フ(㆓)異人ニ(㆒)、彼レ語テ云ク、我ハ男山ノ社人也、昨夜依(㆓)八幡之告勅二(㆒)、深江之法明上人へ謂(㆑)持(㆓)参スト此一匧ヲ(㆒)、上人頂戴(㆓)神賜之寶匧ヲ(㆒)而、演へ(㆓)神人ニ於謝禮ヲ(㆒)畢テ、開(㆓)見スルニ之ヲ(㆒)、有リ(㆓)金巻幷ニ妙経及ヒ寶磬等ノ物(㆒)、則チ挂ケ(㆓)一軸ヲ干路邊之松ニ(㆒)、彌陀所傳。融通念佛。億百萬遍。決定往生ノ説テ(㆑)偈ヲ、歓喜踊躍之大念佛執行 至テ(㆓)干今ニ(㆒)、毎年霜月十六日ニ自(㆓當山(㆒)此ノ處江如来ヲ供奉シ、松ノ下ニテ法事ヲ修ス、俗ニ本尊挂(カケノ)松(ト)ト云フ是也、故ニ崇ム(㆓)中祖ト(㆒)此ノ時、平野郷町ニ始テ當寺建立 山号大源山 院号諸佛護念院 寺号大念佛寺 建立ハ元亨(※1321-1324)年中也、寛永二年(※1625年)迠及(㆓)三百八十余年ニ(㆒)……” (財団法人元興寺文化財研究所, ed. 法会(御回在)の調査研究報告書, 1983:32.)
融通念仏宗の内部事情(天台宗との関係性)
第七代法明上人の後から第四十五代まで鬮によって「世俗」で引き継ぐ制度でしたが、大原南之坊との本寺争いが発生し1661年堺市花田出身の第四十三代舜空上人は寺社奉行から平野大念仏寺が本寺という裁定を受けています。その後は浄土宗僧侶が仏事を勤修する体制になりますが、法衣について天台衣か廬山衣かの争いが生じ 1687年寺社奉行は古記録から天台衣と裁定(信仰内容は天台との違いを認め)、同年知識で住持を選ぶよう定め、1697年在家集団ではなくなります。
“六別時講中の内、一別時ずつ鬮によって選ばれた人物(在俗)が、六別時から一人ずつ立ち合い、本山の如来前に おいて、再び札鬮をあげ、取り当てた者を「上人=(大念仏住職)」とするというものである。法明の次代上人で ある修観興善(第八世)は、この方法で選出されており、以後、第四十五世まで続けられた。 在俗・無智の人物が「住持」となるのであるから、別に僧侶を必要とした。…… ……八尾・石川・高安別時が平野大念仏寺を大原南之坊の末寺と称して、上人の大原よりの選出を主張する事件へと発展する。 本争論は幕府の裁許を仰ぐこととなり、第四十三世良恵舜空上人代の寛文元年(一六六一)、寺社奉行は、大原 南之坊と平野大念仏寺へ次ぎのような裁定を下した…… 第一条目には、融通念仏は南之坊を開山した良忍上人の始めたものであるが、中絶した、その融通念仏を再興したのが法明上人であり、上人は大念仏寺に住み、今に相続されているので、六別時は大念仏寺を本寺とすべきである、” (神崎寿弘. “摂津・河内地方における大念仏上人と挽道場.” 鷹陵史学, no. 29 (2003): 189–213. https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_OS002900001798.)
法明上人の存在は融通念仏宗にとって天台宗と融通念仏宗とを識別するアイデンティティの証ですが、在家集団から僧侶相承へ変遷する頃第四十六代大通は『融通大念佛龜鐘縁起』の法明上人についての記述を「在家入道」から「無智入道」へと書き換えています。 大通上人は紫衣を着用して他の宗派の僧侶によらない独立性を確立します。 (神崎寿弘. “摂津・河内地方における大念仏上人と挽道場.” 鷹陵史学, no. 29 (2003): 189–213. https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_OS002900001798.)
縁起は、宗教集団がおかれた状況や教義内容の変遷によっても変容していくようです。縁起の中の法明上人と石清水八幡宮の使いが出会う場所が「かたの」「合逢之茶屋」「本尊掛松」とバリエーションがあるのも、これらの動きと無縁ではないようです。
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