近江国坂田郡の息長川は1770年椿井政隆が誕生する以前に書籍や郷土史にて書かれていました。また、椿井文書と鑑定された明朝体以外の書体で書かれている古文書は多数あります https://fujinkoron.jp/articles/-/2218?page=3 。 それゆえ、明朝体や息長川を理由に『世継神社縁起之事』を椿井政隆作椿井文書と確定できません。
(追記:七夕伝承について考察した『七夕伝承と天野川-和歌・物語世界の心性史』をアップロードしました。(まだ書きかけの考察です))
また、原本は明朝体以外の書体のようにも見えます。
元々神社の縁起書とは信仰における霊威譚や伝承であって「歴史」ではありません。史実が織り交ぜられているものもありますが、いつの時期にか作られ信仰の変容に伴い内容を更新されたものです。
元々歴史ではない伝承や霊威譚を「偽史=偽の歴史」と呼ぶのはトートロジー的です。
世継神社縁起之事
1986年秋『近江町史』編纂時の史料調査時に滋賀県米原市世継の世継(蛭子)神社から発見された世継(蛭子)神社文書八巻と古絵図二枚の中に『世継神社縁起之事』という古文書がありました(「湖北発祥説が浮上 近江町蛭子神社古記録に〝ルーツ〟」中日新聞1987年7月4日滋賀版)。
椿井文書説
歴史学者中村直勝は明治時代に製造販売された椿井文書について記録しましたが、近年は椿井文書は全て椿井政隆(1770-1837)が書いたという説が浮上しています。
『世継神社縁起之事』は椿井政隆作の椿井文書という説があります。
「また、湖北は彼(※椿井政隆)がこだわりを持っていた息長氏の出自の地なので、「筑摩社並七ヶ寺之絵図」では近世に朝妻川とも天の川とも呼ばれていた川に「息長川」の名称を与えている。そのほか、音が通じる「朝嬬皇女墳」を朝妻川沿いの世継村に設置する。さらにその対岸にあたる朝妻村には「星河稚宮皇子墳」を設置している。朝妻川は天の川とも呼ばれていたので、七夕伝説と重ね合わせようとしたのである。……『近江町史』編纂に伴う史料調査で、蛭子神社から……「世継神社縁起之事」と題したものが発見されたのである……しかし、椿井政隆が神社の縁起を作成する際に用いる独特の明朝体で記されており、「息長川」の名称も登場することから、発見されたものは椿井文書とみて間違いない。」 -P.183-185,馬部隆弘,椿井文書,中公新書,2020
「その後、椿井政隆は30代半ばを境に偽文書を作り始めます。おそらく最初の依頼主は今の滋賀県栗東市にある金勝寺です。」 -Kyoko Shimbun 2022.04.01 News https://kyoko-np.net/2022040101.html
契沖(1640-1701年)の“坂田郡の息長川”
しかし、椿井政隆が誕生する前に坂田郡の息長川は書かれています。
「にほ鳥のおきなかかはゝ 息長河は近江國坂田郡に有」 -P.604,契沖全集. 第4巻 万葉代匠記 4,佐佐木信綱 編,朝日新聞社,1926 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979065/313
賀茂真淵(1697-1769年)の近江国坂田郡の息長川
賀茂真淵も息長川は近江国坂田郡と書いています。
「息長川は先は近江也又河内に磯長てふ地有……」 -P.237,"萬葉考二十",賀茂真淵全集. 巻4,賀茂百樹 校,吉川弘文館,1932 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118490/132
「息長川は、天武紀に近江の軍戦息長横河に、云云、諸陵式にも、息長墓は近江國坂田郡にありとしるされしかは近江なり、……」 -P.121,賀茂真淵全集.巻五,賀茂百樹 増訂,吉川弘文館,1932 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913104/66
『淡海木間攫』(1792年)の“坂田郡の息長川”
近江国の郷土史にて既に坂田郡息長川は書かれていました。椿井政隆が偽文書を作成しだしたのは30代半ばということなので、22歳の頃に出た『淡海木間攫』へは影響は与えていないと思います。
「淡海木間攫(※1792) 朝妻川、又息長川とも云よし。今は天の川と云。又、息長之墳、この南に有と云。又、星川稚宮王の墳は古朝妻村の東にありしと云。」 -P.27,1792年『淡海木間攫』(近江史料シリーズ 7,滋賀県地方史研究家連絡会∥編集,滋賀県立図書館,1990)
椿井政隆が「天の川とも呼ばれていた川に「息長川」の名称を与えている」とは言えないようです。
延喜式(10世紀初頭)近江国坂田郡「息長墓」
10世紀初頭「延喜式」21巻諸陵式に息長墓とあり、坂田郡と「息長」の縁が見えます。
「息長墓。舒明天皇之祖母名曰廣姫。在近江國坂田郡……」 延喜式 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991103/353
「息長」という地名だから椿井文書というのは少し保留した方がいいのかもしれません。
では「世継神社縁起之事」とは?
どういう経緯のものかはまだわからないのではないでしょうか。
世継神社、雄略天皇、桓武天皇、南都興福寺、天野川の箇所を改行している点から考えて、文字をきちんと読めていなかった人が絵を模写すように書き写した可能性を感じました。
元々あったものかもしれませんし、そうでないかもしれません。
歴史学者中村直勝は明治時代の政府が神社合祀政策(神社統廃合)を進める中、南山城のある村で製造販売された明朝体で書かれた縁起書・椿井文書を記録していますが、これである可能性はゼロではないと思います。
その場合、依頼があった神社側から由緒縁起を聴き取りして制作していたそうなので元々存在した伝承がベースとなっているかもしれません。
「……先方の求めておるものをきき、時には、今迄知れておる社歴の一部を、彼等に語らせ、その上にて、そのようなものはあったらしいから、探しておくと言って、一旦引取らせ……しかし内容は万更、虚構ではないこともある。興福寺東大寺春日神社等の古記録が、種本ではないか……」 中村直勝. 偽文書ものがたり. 古文書研究, 日本古文書学会,1968年, 1号, p.29 - 47.
中村は椿井文書の特徴を記録していますから、戦後それに倣って腕試しで偽作された文書である可能性もあります。
また中村によると滋賀県内では明治時代製造された椿井文書が多く流通したそうなので、それらが明朝体的な文字で書かれていたのを模倣して(個人的な特徴が消えるので誰が書いたのかわからなくなる)村人が「口承」を書いて神社合祀政策中の明治政府へ提出し信仰対象である小規模な祠や神社を神社合祀政策から防衛した可能性もあります。
明治政府は古老の口承も提出してよいとしていました。
「一 祭神由緒不詳と雖も古老の口碑等に存する者は其旨を記し……」 -内務省達乙第三十一号,1879年 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787959/355
天野川
天野川旧河道は筑摩村と朝妻村との間に流れ込んでいたと最近の研究でわかっているようです。時期は中世までのようです。今現在は旧朝妻村と旧世継村の間に流れています。
内湖も北側へより大きかったようです。
(P.85 -108,近江国筑摩御厨における自然環境と漁撈活動 : 湖岸の御厨の環境史,佐野 静代,国立歴史民俗博物館研究報告,133巻,2006-12-20 http://doi.org/10.15024/00001446 )
1908年『神社明細帳登録願』
1908年『神社明細帳登録願』によると 蛭子神社御祭神は事代主神、 並祀されている 世継神社ご祭神は星河稚宮皇子・朝嬬皇女・天河二星 (P.125,『近江町史』,平成元年11月3日,近江町史編さん委員会,近江町役場)。
1913年『坂田郡史』
1913年『坂田郡史』によると境内には自然石「朝嬬皇女の墓」があり、俗に吾妻石・朝妻石・七夕石と呼ばれていたと記され、 南都興福寺仁秀が朝嬬皇女と星河稚宮皇子を祀るとあります。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925914/258
天野川を渡った南岸の朝妻神社の傍に地元の伝説「星川墓」という宝篋印塔があると記されています。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925914/403
正應四年八月の古図 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925913/100 によると「星川墓」の附近に「朝妻王廟」・北岸世継村側には「朝妻女王廟」と書き込まれ、 土地の伝説では朝妻王墳墓を彦星塚、朝妻女王廟を七夕塚と呼んだと書かれています。
配偶者女性を望む男性は七夕塚へ詣で、配偶者男性を望む女性は彦星塚を詣で、
毎年七月朔日より七日の夜半に天野川の中に三個の盥に水を張り男女の名前を記して水面に映して夫婦を定める例があったけれど、今はもう絶えてしまっていると書かれています。
よつぎ史,2009年12月20日第003号,世継まちづくり委員会より引用 http://kiyotaka.livedoor.biz/archives/51700044.html
(続く)
横田(田中)愛子
Comments