(前回の記事)『世継神社縁起之事』の年代表記は椿井政隆(1770-1837年)が生きていた江戸末期の形式より古く、 中世書かれたはずが近世の特徴を持つ年代表記から椿井文書と推定された文書類とは違っています。
近世とそれ以前の年代表記
近世と中世・上代とでは年代表記の形式が異なるとのことです。
「太田晶二郎氏の研究によると、沼田頼輔博士の説を紹介され…… 年号-数字-年(歳など)-干支 の形式が古く(上代・中世)、 年号-数字-干支-年(歳)は新しい(近世)…… 《数字-干支-年》の確実な例は「天正五丁丑年(※1577)」が最初となった」 藤本孝一. 中世史料学叢論. , 思文閣出版, 2009, p.315-328
(A:藤本孝一. 京都府田辺町 近衛基通公墓 . , (財)京都文化財団, 1988, p.29-36, ((財)京都文化財団〈京都文化博物館(仮称)調査研究報告書第3集〉)
B:藤本孝一. 中世史料学叢論. , 思文閣出版, 2009, p.315-328 )。
椿井文書と年代表記
下記文書は椿井家の一連の作ではないかと推定されています。 『郷惣図』の年代表記の形式は近世で中世のものではありません。 『普賢教法寺四至内之図』の画風は近世流行したものなので『郷惣図』を元に1788年以降椿井廣雄※によって書かれたのではないかと推定されています。椿井家は幕末田辺町へ移り住んだとあります。
『興福寺別院山城国綴喜郡観心山普賢教法寺四至内之圖(普賢教法寺四至内之図)』 (観音寺所蔵、もとは田辺町大西家所蔵) 「正長元年戊申歳次(※1428)三月……天文貮年(※1533)六月再画」」
『山城国綴喜郡筒城郷惣図(郷惣図)』 (陽明文庫所蔵、明治14年模写) 「「文明十四壬寅年(※1482)正月廿八日始図之,/永正六己巳年(※1509)十一月加増補再画之,」……「天明八戊申年(※1788)九月十六日/以春日社新造屋古図模写之」」
また下記文書も椿井廣雄の椿井文書ではないかと紹介されました。
『興福寺官務牒疏』
『飯尾山医王教寺鎮守社祭事紀巻』(個人蔵) 「明応三申寅年(※1494年)……椿井広雄応龍子誌之」
『高麗大寺圖』(山城町役場蔵、模本) 「……嘉禄元乙酉年(※1225年)……元徳二庚午年(※1330年)…… 応永十六巳丑年(※1409年)加増補復 模写之事……椿井応龍子正群政隆」
『北吉野山神童子縁起』(神童寺蔵) 「大永弐甲申年(※1522)八月……平群龍麿広雄」
(以上、文献A並びにB)
世継神社縁起之事の年代表記
対して、『世継神社縁起之事』 http://kiyotaka.livedoor.biz/archives/51700044.html の年代表記は椿井政隆※(1770-1837年)が生きていた近世・江戸末期のものではありません。(近江町史(1989年)P.125によれば世継神社縁起之事は写しのようです。)
「天正十五歳次丁亥歳猛秋(※1587年)」 世継神社縁起之事,世継六右衛門定明
世継六右衛門定明の名前とよく似た名前の浅井家に属する「世継三右衛門」が 淡海温故録(1684-1688年) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9569512
に出てきます。
世継には世継姓の方がいて息長氏の伝承を伝えているようです。
「世継……現地調査の機会にも恵まれ……旧法性寺村内世継には、東本願寺末の浄念寺があり、これも旧稱を天台宗四木山清浄護念寺といい、無動寺末であった。現宗派となったのは蓮如の甥蓮綱が加賀より来って初代となり、その後も世継姓を名のり十四代に及んでいるが、境内には鎌倉時代の宝篋印塔その他石造遺物が散在し、いずれも息長史の墳墓の後と伝えているのであった」 P.128,林屋辰三郎,古典文化の創造,東京大学出版会,1964
林屋辰三郎は世継へ現地調査した際にその北にある村の寺で「明らかに南都椿井氏の製作で信憑し難い」縁起を見てると記録しています(上掲書籍)。
よつぎ史,2009年12月20日第003号,世継まちづくり委員会より引用 http://kiyotaka.livedoor.biz/archives/51700044.html
横田(田中)愛子
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