abstract
名誉毀損や侮辱についての責任を求められる被告側は真実性・真実相当性や公益性・公共性について問われる可能性が出てくるのですが、話題が学術に関するものであればそれを立証しようとすると被告は学術論争上の膨大な資料を用意し証明しなくてはならないので夥しい時間が必要となります。
その史料の膨大さと分野専業性と方針の相違ゆえに受任していただける代理人の方を見つけるのが難航し、遠方ですが、以前から理・文隔てなく様々な分野の専門書を速読されtweetされていた高橋雄一郎先生が代理人となられました。数年かけて集めた資料から相手方の問題点を凝縮され、短期間で問題解決に到着できました。
本人訴訟が増加しているとのことですが、もし今回そうしていれば到底この結果は得られず、延々と訴訟が続き論文発表不可能な事態となっていたかもしれません。
裁判は我々一般市民にとって全く未知の世界なので、例えば良かれと思って述べた事が最悪の結果を招く可能性もあります。
裁判を被告側として経験する事が出来たのですが、色々深考させられる点がありました。
今回の様な名誉毀損や侮辱の裁判では真実性・真実相当性を争えるスペースがあります。そういうケースでも原告または被告の主張によっては、学術論争的性質を持ち得ます。
たとえば椿井文書に関する学説は明治時代より続いていますが、このような学術的論争への判断を裁判所へ"委託"することにはいくつかの問題があると思いました。
この短考は、裁判所における科学的論争の判断がなぜ困難なのかについての小片です。司法が科学者たちの間の学術論争に公平かつ公正な判断を下すことが困難な理由を考察します。現在、国会でインターネット上の言論に対して様々な法的介入が議論される中、その中でも特に学識経験者間での論争が社会に及ぼす影響力の大きさを理解する上で重要だと思われます。(情報流通プラットフォーム対処法) https://www.jimin.jp/news/information/207705.html
introduction
学術的論争は、知識の発展と社会の進歩において重要な役割を果たしてきました。大学はその自律性と知識の探求の自由に基づいて、学術的な探求を支援し、議論の場を提供してきました。論争の解決は高度な専門知識と経験が求められます。司法の場において科学的証拠が判決に影響を与えることもあり、学術的な論点を正確に理解し、適切に判断する必要があります。しかし、このような判断はしばしば困難を伴います。
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司法の場が専門的な科学的知識を持っているわけではないため、科学的な論争に対する深い理解を持っているとは限りません。科学者たちが複雑なデータや理論を提示する際に、その内容を正確に評価することは困難です。
科学的論争には、不確実性や複雑性が伴うことがよくあります。科学的な問題はしばしば明確な答えがなく、異なる専門家や研究者の間で意見が分かれることがあります。裁判所がこれらの問題に対処する際には、その不確実性や複雑性を十分に考慮する必要があります。
科学的な論争では、異なる専門家が異なる意見を持つことがよくあります。裁判所は、これらの専門家証人の信頼性を評価する必要があり、時にはその証言が偏見や利益に基づいている可能性も考慮しなければなりません。
法的なプロセスと科学的なメソッドは異なるアプローチを持っており、法廷での証拠の提示や証言の基準は科学的な方法論とは異なる場合があります。論争中の科学者たちはこれらの違いを理解し、法的な枠組みに適合させなければなりません。
大学は、学問の自律性を維持するために自治権を持っていますが、時には学術的論争がその境界をはみ出してしまうことがあります。例えば、研究者の学術的自由と大学の社会的責任の間で緊張が生じることがあります。大学は、学術的論争に対する適切な対応策を検討し、学問の自由と社会的責任のバランスを保つことが求められます。
学術的な議論が司法上の紛争の一部となる場合、または全面的にジャッジメントを依存する場合、時にそれが学術的自律性に影響を及ぼす可能性も考えなければなりません。
また、学術的論争の反論を抑制するためのスラップ訴訟というケースの存在も考察しなければならないと思われます。(【弁護士・佃克彦_2016年8月8日論稿】日本の名誉毀損法理とスラップ訴訟 https://note.com/tsukuda_law/n/n9f9462fd5851 )アカデミック・ハラスメントがよくメディアの記事に登場しますが、日本でも散見されます。
また人文学と自然科学の学説論争は、方法論や倫理的観点から異なる側面を持ちます。人文学は主観的な解釈や文化的な要素に基づいており、自然科学は客観的な実証に基づいています。したがって、これらの学術分野における論争の性質や解決策も異なる場合があります。
学術と法律は異なる枠組みを持ち、異なる目的を持っています。学術は知識の探求と真理の追求を目指し、自律性と批判的思考を重視します。一方、法律は社会的な秩序や公正を確保することや紛争の解決を目的としており、その適用は時に厳格で制約的です。
たとえば椿井文書ですが、裁判所は歴史学の専門家ではないため、椿井文書に関する専門的な知識や文書の解釈について短期間で理解を深めるのは困難です。
椿井文書研究に関する議論は、膨大な文書や資料を対象としており、その証拠の評価は困難を伴います。裁判所がこれらの証拠を適切に評価するためには、膨大な時間と労力が必要となります。
また歴史的な真実や学術的な議論はしばしば法的な枠組みとは異なります。裁判所が歴史的な問題に法的な解決策を適用することは、歴史学と法律の間の相違点を考慮しなければなりません。
学術研究は自律性と学問の自由に基づいています。裁判所が学術的な論争に介入することは、その自律性を損なう可能性もまた潜在的にあります。学術界においては、学者や専門家が自らの研究を行い、議論を展開することが重要視されています。
これらの問題点から、裁判所への議論終結の委託的な願望は、学術的論争の解決に適切な方法とは言えないのでしょう。代わりに、学術界内での議論や研究の進展を支援し、専門家の間での合意形成を促進することが望ましいと思われます。
conclusion
学術的論争と法的枠組みの間の谷間を埋めるには、複雑性と専門性の橋渡し的機能が求められます。科学的不確実性、専門家証人の信頼性、および法的プロセスと科学的メソッドの相違などの問題に直面します。したがって、公平かつ公正な判断を下すためには、米国研究公正局(ORI)のような両方の枠組みをミックスした場所の存在が不可欠です。
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