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椿井文書が明治時代に創られた記録

更新日:2023年12月12日

1987年の自治体史『野洲町史』には明治時代に創作された椿井文書の記録があります。最新の学説では椿井文書の作成時期は江戸時代で作者は椿井政隆(1770-1837年)であり、明治時代の創作というのは勘違いと云われはじめていますが、江戸明治両時代あったと思われます。

椿井文書の別名「木津文書」


椿井文書の別名は「木津文書」です。

……明治に入って社格の制が設けられると、競って自己の村の神社の昇格を念じて社歴を捏造している。しかもこの捏造された社歴は京都府木津町椿井某によって一手に造られているものが多く、これは木津文書または椿井文書とも呼ばれる。……しかし中には神社の伝承を加味しながら記されたものであって、一概にきり捨てがたいものもある 神道体系編纂会, ed. “解題.” 神道大系神社編二十三近江国, 1988, 11. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12266528.

明治時代に創られた椿井文書の記録


自治体史『野洲町史』(1987)は、1902年頃縁起書を所有していなかった神社へ旧記の縁起書を所有する南山城の木津の今井家を紹介する滋賀県庁の役人さんが記録されています。

椿井文書(木津文書)は明治政府の神社合祀政策を回避する官民間の暗黙の了解的な抜け道のようなものだったのかもしれません。その状態が他の記録に書かれている「特殊扱い」なのでしょうか。

「特殊 他のものと同じからざること。特別。格段。」 大槻文彦. 大言海. Vol. 3. 富山房, 1937. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1902792/274 .

行畑の行事神社はその縁起に 「行事神社ハ近淡海国益須(やす)郡御神(みかみ)郷三上荘中畠村鎮座(中略)古代ハ本村ノ大政森ト称スル小山ヲ神体ニ斎(いつき)マツラセ給フ、神亀元甲子年(七二四)社殿ヲ創立シ、天之御影命打給ハリタル神劔ヲ神体二遷座シ給フ」とある。 右の縁起は中畠村が明治三五年(一九〇二)五月四日、野洲郡長磯部信剛を経て県庁に提出するため作った縁起で 「他ニ確実タル物無レ之処、本社ノ旧記ハ京都府綴喜郡新木津村今井良成殿方二有レ之趣、本県庁社務課長ヨリ内意二聞及ヒ候二付、中畑吉右衛門・中畑安治郎両人明治三十五年二月二十五日ヨリ参リ候、一応ニテハ聞入ズ段々相頼ミ候得バ三、四日滞在ヲ被レ申、種々苦心労シテ四日間滞在致シ候処、本社歴史書物ヲ貰受ケ候二付、其謝礼トシテ金十八円ヲ進呈ス、右四日間滞在往復旅費ハニ名ニテ金七円七十八銭五厘消費シ候」と作成された経過が記されている。  いわゆる木津文書ではあるが、三上との一連の基盤を願っている気持がわかる。中世においては郷・荘という大きな括弧で包まれていたので、妙光寺村に限らないが四隣の村むらが共存共栄していた。 寺井秀七郎. 野洲町史. Edited by 野洲町. 野洲町, 1987. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9571853/165.

1902年滋賀県庁社務課長が行事神社側へ「貴社の旧記は木津の今井家に在るよ」と云うのが可能な状況は


  1. 課長は行事神社の旧記が木津の今井家に在ったと既に知っていた

  2. 課長は今井家に滋賀県内社寺の縁起書がほぼ全て在ったと知っていた

  3. 課長は行事神社が木津の今井家へ行けば作ってもらえると知っていた

の内のいずれかだと思います。


1なら、木津の今井家も滋賀県庁社務課長も所有縁起書リストを所持していたはずですですが、中央政府にばれれば役人さんは処分されてしまいます。

2は、江戸時代の個人の仕事として物理的・費用的に非常に難しいように思えますが、マッチング確率は100%となります。

3はコスト・制作時間は最小で、かつ、マッチング確率100%です。


1936年、考古学者の島田貞彥特殊扱いである木津の系図家について書いています。有名であったようです。

私も考古學の門前に立つてから二十餘年を経過した……に日本人として郷土の文化を宣揚しないものはなからう。都鄙をしなべて無格神社から有格神社に昇進せしめたがる気風は学校の昇格運動に比し劣るものではない。系統を尊ぶ国民だと云ふことは云ふまでもない。このよりよき系統を保持したい気持ちは昔も今も変わりないが、足利時代頃から殊に盛んになり、山城の木津には専門の系図家があつて、こゝに頼めば金一封の内容に応じて素町任でも水呑百姓でも立派な祖先をつけて呉れる。世に木津文書として特殊扱にせられてゐる。考古學は遺物を主體とするものであるが、古文書や古書畫と同じく偽物が中々に多い。支那物は主として上海で日本物は奈良でと云ふのは定評を通り越して、今日では其外多くの處で模作される 島田貞彥. “隨筆 考古二十年.” 満蒙 17, no. 1 (1936): 184–188. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3564745/110 .

南方熊楠が神社合祀政策に反対する際に書かれた政策の説明でも、特殊の事情が有る場合は合祀の対象とならない旨が記されています。

最初明治卅九年十二月原内相が出せし合祀令は、一町村に一社を標準とせり。但し地勢及び祭祀理由に於て、 特殊の事情有る者、及び特別の由緒書有る者にして維持確實なる者は合祀に及ばず、其特別の由緒とは左の五項也。 南方熊楠. “原稿(神社合祀に關する意見).” 南方熊楠全集 8 (1951): 151. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2941182/85 .

1939年頃、歴史学者の永島福太郎南大和地方の古文書調査で「近代の偽文書・木津文書を見たとのべています。

二『大和古文書聚英』と『春日神社文書』(第参)両書は私の史料編纂所在職の記念品である。ともに公刊は昭和十七年と記されているが、……『大和古文書聚英』は昭和十四年……用命をこうむったものである。……とくに南朝ゆかりの南大和地方の採訪に努めた……このおり、社寺や官蹟の縁起や絵図類が主だが、近代の偽作に気が付いた。いわゆる木津文書であり、とくに木津川沿岸にわたるものが多く、一部は大和にも北河内にも及んでいる。しかし、概して大和には偽文書というべきものか少ない 永島福太郎. “春日社興福寺文書.” 國學院雜誌 80, no. 11 (1979): 208–219. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3365517/109 .

椿井文書についての記録を残した歴史学者の中村直勝は、下記の様に神社で椿井文書を見かけた折のエピソードを記しています。

椿井文書……それで、私は、滋賀県の村邑を歩いて、古社に詣でたときに、この種の縁起書を度々拝見させられたが、滅多に見せぬ秘蔵の縁起だと言って、もったいらしく示されるのを常とする。  そこで私は、決してこれが偽物であるとは言わないで、黙って拝見するが、時には入手の時代、径路、価額までを言い当てて、総代さんを驚かすこともあるし、そうした時には、今後、この縁起書は社殿深く納めて他見を許さないがよいから、写本を作っておいてそれを見せた方がよい、と注告して帰ることにしている。 中村直勝. 歴史の発見 古文書の魅力. 人物往来社, 1962. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2972318/104 .

民俗学者の中山太郎が記録した下記の京都大学の学生とは、歴史学者の中村直勝本人または彼の後輩の方でしょうか?大阪府でも木津の系図屋さんで造ってもらったという証言記録が残っています。

神社合祀政策は江戸時代から続いてきた儒教が背景にある政策ですが、零細神社は併合されまいと苦心されて椿井文書を購入したのかもしれません。

(華園 聰麿. “明治期における神社の廃合の経過と影響 ―中国地方一山村における事例研究―.” 論集 8 (1981): 1–51. http://hdl.handle.net/10097/00127983 .)

ナニか古文書か社殿のようなものはありませぬかと開き直ると、神官曰く、先項京都大学の学生さんが来て此の巻物は見せると却【かへつ】て笑はれるから決して見せるなと云ふたゆゑ、縁起はあるが見せられぬと、それでも平【ひら】に頼むと初穂【はつほ】はお志次第と見料【けんれう】の催促が迂廻運動をはじめる。一見に及ぶと成ほど学生さんの云はれた通りの笑はれもの。それでも神官殿は口尖【とが】らして、此の巻物は先代の神官が、木津の阿部はん(此の地方で有名なる系図書きで、大和河内の神社仏閣には、此者の手になる偽縁起【ぎゑんぎ】頗る多し)に頼みやはつて、三十両といふ金を出しはりましたんだつせと例の大阪弁で噛みつくやうにほざく。 中山太郎. “百済王族の郷土と其伝説(上).” 郷土研究 2, no. 1 (1914). https://blog.goo.ne.jp/514303/e/2c2fc95355d3584d5621976f7bdd97fb (「礫川全次のコラムと名言」2018-11-18より孫引き) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1449499/39


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