椿井家の系図は義民伝承とつながっていますが、尾張椿井家文書と政秀寺文書並びに『平天後ニ改平手家譜謀』とは椿井政里女の生年と法名の整合性がとれません。 お上に直訴する義民物語はその多くが後世顕彰されたものでほとんどは史実ではないそうです。(若尾政希. 百姓一揆. 岩波新書, 2018.)(呉座勇一. 一揆の原理. 筑摩書房, 2016.)
(draft版)(2023-05-09加筆あり)
椿井家の系図『諸系譜』
椿井家系図が収録された『諸系譜』(『鈴木真年稿本』by 国立国会図書館『帝國圖書館和漢書書名目録第四編』)は主に中田憲信の稿本のようです(横山勝行, ed. “『諸家系図史料集』解題目録,” January 20, 1995,96.)。
中田憲信は南朝後村上天皇第18世孫を名乗られていたそうです(木村信行, ed. “中田憲信とはどんな人.” 日本歴史研究所, n.d. http://nihonrekishiken.com/nakatakensin.htm . )
鈴木真年と椿井文書の縁
椿井文書は椿井政隆一人作説の根幹となった『郷社三之宮神社古文書伝来之記』三宅(1911)にて三宅氏へ木津の今井家から三之宮神社関連古文書を購入しようともちかけた三松氏は王仁末裔と書かれています。 三松家は百済王氏末裔とする系図は鈴木真年『百家系図』に収録されていますが、師匠の栗原信充が所有していた史料にあったもののようです。(上野利三, ed. “「百済王三松氏系図」の史料価値について : 律令時代の帰化人の基礎的研究.” 慶應義塾創立一二五周年記念論文集, 1983, 385–407. https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=BN01735019-00000005-038 .)『百家系図』第十六冊リール2(国立国会図書館書誌ID027779967)には小堀〔藤原氏秀郷流(内藤・椿井)〕も収録されています。
椿井政堯の実は小堀政弘の息子であるからなのか、小堀家のくくりに内藤家と椿井家が入っています。
椿井家先祖の血筋をひいているのは内藤家です。
小堀家・内藤家・椿井家と義民物語
『百家系図』で小堀家にまとめられた内藤家・椿井家の系図を『諸系譜』『寛政重修諸家譜』『小堀家系図及事蹟』(滋賀県立図書館書誌番号4090347;原本の資料番128543246)併せて絵図にすると、椿井文書の椿井政隆の時代に小堀・内藤・椿井家の人達の名前の類似性がみてとれます。
小堀政登-椿井政堯-まさたか
椿井政堯(まさたか)が御書院番となったのは、小堀政登(まさたか)が1796年死去した2年後です。
小堀政昌-内藤政福-まさよし
内藤政福(まさよし)が御書院番になったのは、小堀政昌(まさよし)が1783年死去した1年後です。
小堀政榮-椿井政隆-まさなが(まさひで)-まさたか
小堀政榮は1804年死去しています。椿井文書著者説がある椿井政隆は1770年生まれだそうで30歳半ばから活動し始めたそうですが、それは1805年前後にあたります。(Kyoko Shimbun 2022.04.01 News https://kyoko-np.net/2022040101.html)
これらは偶然の一致でしょうか?それとも、泰平を演じる「ゾンビ政治」的(ロバーツ ルーク S. 泰平を演じる. Translated by 友田健太郎. 岩波書店, 2022. https://www.iwanami.co.jp/book/b606550.html .)改易に対する穏便策だったのでしょうか? (2023-05-10加筆)小堀政方改易と同時に廃藩となった近江小室藩ですが、『諸系譜』の椿井権之助政隆と同一人物説がある椿井廣雄(『續浪華郷友録』文政六年(1823))が近江国で活動していた記録が残っています。しかし『續浪華郷友録』著者の毛必華こと曾谷学川は1738年生まれ1797年12月7日逝去なので、もし毛必華が原稿を最晩年に書いたとしても椿井政隆が活動を開始する前の27歳の頃で矛盾があります。(加筆)
(2023-05-10加筆)“大名相良晃長は一七五九年に秋月氏から相良家へ養子入りした際、公称一一歳(実際は八歳)であった。……一七六一年には公称一三歳で亡くなってしまった。……鷲尾隆熙は次男五十丸を大坂の寺に預けたがうまくいかず、五十丸は秘かに家に戻っていた。五十丸はそのために人目につかない存在となっていた。年齢も一二歳とちょうどよく、……五十丸は死んだ晃長になり替わることになった。……後に賴定と改名し、公称一七歳で公方家治にお目見えし、相良家の継続が保証された。……大森は数多くの大名の例を挙げている。対馬の宗氏、臼杵の稲葉氏、盛岡の南部氏、赤穂の森氏などは徳川「表」の記録では一人の大名だかが、実際は二人の人間が入れ替わっていた。この方法は江戸政府にも暗黙のうちに受け入れられていたようだ” (ロバーツルーク S. 泰平を演じる-徳川期日本の政治空間と「公然の秘密」. Translated by 友田健太郎. 岩波書店, 2022, 99-100.)(加筆)
近江小室藩小堀政方改易には伏見義民のお話と酒席談の2種類のエピソードがありどちらが史実なのかがわからないのですが(後藤宙外. 通俗日本全史. Edited by 早稲田大学編輯部. Vol. 12. 早稲田大学出版部, 1913. https://dl.ndl.go.jp/pid/770210/1/255 .)、
改易となった小堀政方の妻は桂昌院の姪孫、椿井政堯(小堀政弘と尾張家家老渡邊貞綱女との息子)の祖母は遠藤胤親(白須数馬)の例がある瑞春院の姪孫で、人事に影響力があったという大奥とつながりがある点が気になります。
尾張椿井家文書と義民・孝女物語
2007年頃岐阜県在住の椿井氏と名乗られた方から奈良県平群町へ持ち込みされた古文書・尾張椿井家文書の系図類は、儒教的道徳観が反映された『孝女會與傳』や忠臣の伝承がある平手政秀の系図とつながりがあります(平群史蹟を守る会, ed. “椿井氏の資料.” 烏兔, no. 79・80 (2007.): 33–38.)。
忠臣・平手政秀と尾張椿井家文書
2007年岐阜県在住の尾張藩の椿井家末裔椿井氏を名乗られた方が奈良県平群町へ持ち込まれた系図には、織田信長を諫めた忠義の伝承がある平手政秀の祖母の名前が書かれています。 (平群史蹟を守る会, ed. “椿井氏の資料.” 烏兔, no. 79・80 (2007.): 33–38.) (瀧喜義. “信長と平手政秀.” 郷土文化 47, no. 3 (1993): 3–14. https://dl.ndl.go.jp/pid/6045197/1/6.) 『寛政重修諸家譜』『寛永諸家系図伝』(52コマ目)の椿井家先祖「政勝」より前です。
山城国一揆と尾張椿井家文書の系図
(2023-05-09,10加筆)山城国一揆の頃の椿井加賀公懐専切腹の伝聞が大乗院寺社雑事記・文明17(※1486)年12月29日条にあり(大乗院寺社雑事記 第101冊62コマ https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000001610 )(尋尊大僧正. 大乗院寺社雑事記. Edited by 辻善之助. Vol. 第8巻 尋尊大僧正記. 東京: 三教書院, 1934. https://dl.ndl.go.jp/pid/1155249/1/207 .)、尾張椿井家文書の系図は椿井政里は椿井加賀公懐専だという事を示したいようです。大乗院寺社雑事記・長禄二年(1458)閏正月一三日条によると椿井加賀公懐専は享徳三年(1454)山城国の菅井庄の役人になっているようです(尋尊大僧正. 大乗院寺社雑事記. Edited by 辻善之助. Vol. 第1巻尋尊大僧正記. 東京: 潮書房, 1931. https://dl.ndl.go.jp/pid/1190437/1/181.)。 筒井順慶とみられる人物が椿井氏の家系だと書かれているのが不思議です。(加筆)
“(2023-05-09加筆)(※椿井)政里 従五位下越前守大膳大夫五位下 依(?)台命和州奈良吉野町構屋形後改號椿井町 一乗一品法親王興福寺阿弥陀院依由緒椿井家爲猶子住職 童名龜丸 文明十七年(※1486)乙巳十二月廿八日逝九十一 勝壽院殿中散大丈前越州(?)大守浄玄懐専大徳……(加筆) 政里-女子 平手加賀守源義英室 尾洲愛知郡平手邑之城主従四位上侍従 童名千代夜刄丸寛正三壬午(※1462年)八月廿日誕生 母小笠原民部大輔持長女 長享元丁未(※1487年)十月十七日 善勇院殿喜山壽椿大姉…… (2023-05-09加筆) 政里-政信… -順興(※政信四男) 童名藤千代 丸和州筒井住仍爲稱号 筒井民部郷興福寺官府衆徒成棟寮 -順政 興福寺官府衆徒-順勝 興福寺官府衆徒- -順慶 興福寺官府衆徒官領 和州郡山城主六十万三拾石余(加筆)” (平群史蹟を守る会, ed. “椿井氏の資料「椿井氏系図」(二).” 烏兔, no. 83・84 (2009.): 44.) (平群史蹟を守る会, ed. “椿井氏の資料「椿井氏系図①」(三).” 烏兔, no. 85・86 (2009.): 39.)
平手家・野口家系図
平手政秀の系図は徳川家康と遠い親戚関係という系図になっているようです。 徳川家康の系図も織田信長を諫めた伝説がある平手政秀の系図も歴史的スーパーヒーローゆえにか後世作った部分がある系図だと言われています。
“義重(新田新太郎)-義季(得川四郎)-頼氏(世良田弥四郎、三河守)-教氏(世良田弥二郎)-家時(世良田又二郎)-満義(世良田孫二郎)-政義(世良田大炊助、右京亮)-親季(世良田修理進)-有親(世良田右京亮)-親氏と義英 -親氏(松平太郎左衛門)-親清-泰親-信光-親忠-長親-信忠-清康-広忠-家康 -義英-(※平手氏・野口氏へと続く※省略した引用になっています)” (加藤國光, ed. 尾張群書系図部集. Vol. 下. 東京都: 続群書類従完成会, 1997, 833.)
平天後ニ改平手家譜謀
『平天後ニ改平手家譜謀』と牛頭山長福寺墓碑を参照した系図には、楠木正成公末裔の生津正常の女・橋本道一(橋本一巴の子息)の女、加藤清正(1562-1611)の女、椿井政里の女の名前が見えます。(2023-05-09加筆)系図では平手汎秀は1553年生まれなので母の出産時の年齢を18歳と仮定すると加藤清忠(1526-1564)が9歳の時にもうけた子という計算になるので仮想的系図ではないでしょうか。(加筆)
“〇中島郡三宅村(中島郡平和町上三宅)郷士。 ∴清和天皇……有親- 義英 満千代丸、五郎左衛門尉、平手加賀守、従四位上、侍従 母斯波義佐准女。実は池田大隅守正徳女(諸子、文明十八年九月二十日卒。霊光院殿心相窓月大姉)。 永享三年(※1431)十月九日生る。 尾張愛知郡天城主。 後尾州春日井郡小木村に移城す。 明応五年(※1496)十月八日卒。嶺松院殿雲峰智山大居士。 -英秀 春千代丸、五郎左衛門尉、甚左衛門尉、長門守、従四位、侍従 母椿井越前守政里女。 宝徳三年(※1451)二月五日生る。 尾州春日井郡小木・志賀城主。 明応九年(※1500)(五年)十月二日戦死。霊嶽院狐山不白大居士。 -経英(経秀)…… -政利<野口> 経英-政秀 清秀、狛千代丸、五郎左衛門尉、長門守、従五位上、中務大輔、中務丞 母舎人三河守輝秀女。 明応元年(※1492)五月十日生る。 織田弾正忠信秀・上総介信長に仕え家老職。 愛知郡荒子・春日井郡小木・志賀城主。 天文二十二年(※1553)閏正月十三日、志賀城内にて諫死。 六十二歳。政秀寺殿功庵宗忠大居士。 -久秀 狛千代丸、五郎左衛門、監物、久左衛門、従五位下、加賀守、宗政 母生津民部大輔正常女。 大永五年(※1525)四月三十日生る。 春日井郡小木城主。 天正二年(※1574)八月二日、勢州長島にて討死。五十歳。 法名聖明徳院殿前加州太守従五位下鉄渓宗賢大禅定法門。 -汎秀 季胤、秀千代丸、五郎左衛門尉、甚左衛門尉、監物 母加藤主計頭清正姉。 天文二十二年(※1553)正月二日生る。 織田信長に仕え、元亀三年(※1572)十二月二十二日、三方原合戦に討死。…… 政利<野口>……-政知 五郎左衛門、野口善兵衛 母橋本伊賀守道一女。慶長二年(※1597)二月十二日卒。…… -由房 縫殿、丹十郎、仁右衛門、由秀 元文四年(※1739)十一月二十六日生る。 椿井仁右衛門房隆養子。 文化四年(※1807)六月二十八日卒。善光院仁誉由義居士。…… -秋秀 ……弘化元年(※1844)六月十八日生る。 中島郡書記、三宅村村長、愛知県会議員、中島郡会議員を歴任す。 明治四十五年(※1912)一月一日卒。…… -高秀…… -茂秀…… -宏(中島郡……)” (加藤國光, ed. 尾張群書系図部集. Vol. 下. 東京都: 続群書類従完成会, 1997, 824-833.)
政秀寺文書 平手氏家譜
1553年織田信長創建、1612年より現在地にある政秀寺の文書では椿井越前守政里女について詳しく書かれています。しかし尾張椿井家文書の椿井政里女は1462年生まれなので政秀文書や平天後ニ改平手家譜謀の椿井政里女のように1451年に英秀を産む事はできませんし、法名も異なるようです。 政秀文書の椿井政里女はどうも1432年頃の生まれのようです。
“義英…… -英秀 五良左衛門尉 又□左衛門尉 平手長門守、従四位、侍従、尾州春日井郡志賀邑・小木村兩城々主、 烏帽子名春千代丸、義英實嫡男、寶徳三辛未年(※1451)二月五日誕生、 母椿井越前守従五位下大膳大夫藤原政里女、和州椿井城主、。 (朱書)「量信院殿隨應智順大姉」 大永三癸未年(※1523)十月十一日逝、俗名里子、亨年九十二歳、” (東京大学史料編纂所, ed. 大日本史料. Vol. 第九編之二十三. 東京都: 東京大学出版会, 2003, 169-170.)
岡田加茂神記巻
(2023-05-09,10加筆)山城国一揆の頃の椿井加賀公懐専と上記系図から解釈可能な「椿井越前守平群藤原政里」の名前が京都府相楽郡誌(1920),京都府教育会相楽郡部会,189頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/960739/1/113 にも見えますが他の文献に「岡田加茂神記巻」という名前が見えず地域的に椿井文書の可能性があるので判断しかねますが、尾張と山城と大和をつなぐ足掛かりとできる記述の存在として着目しています。「椿井越前守平群藤原政里」に見える「平群」は姓とも地名とも受け取れるため、山城国に実在した椿井城と平群の椿井城(伝承的?)との同一視・混同がどこかの時点で発生したのではないか?と考えています。(加筆)
孝女會與傳と椿井家系図
『平天後ニ改平手家譜謀』に見える(野口)椿井由房や椿井仁右衛門の名前は、儒教的価値感から江戸時代・明治時代に褒賞された孝子顕彰の中に見えます。 (Steenpaal, Niels Van. “近世中期における「孝子」顕彰の 実態とその意義 : 孝子万吉を事例に.” 京都大学大学院教育学研究科紀要 57 (2011): 351–364. http://hdl.handle.net/2433/139612.) (ニールス・ファンステーンパール . <孝子>という表象 近世日本道徳文化史の試み. ぺりかん社, 2017.)
(広島県立文書館, ed. “広島藩における民衆教化と孝子奇特者褒賞 ―『芸備孝義伝』と『教訓道しるべ』―.” 広島県立文書館 収蔵文書紹介, 2011. https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/41178.pdf.) (東昇. “近世後期天草郡高浜村における村民褒賞と文書群の形成.” 京都府立大学学術報告. 人文, no. 71 (2019): 219 – 239. http://id.nii.ac.jp/1122/00006168/.)
“曾與は、尾州海西郡鳥ヶ地村の土民善六と云ふ者の娘なり…… 抑此鳥ヶ地は、本藩之大家志水甲州公之領地也、曾與が孝儀 甲州公の邸に聞え、安永二年癸巳(※1773)之冬、曾與親子及里胥村長等、五人組兩鄰の者を召して、委しくそよが行實を糺し給ひ、かしこくも厚く恩賜有て、居屋敷無年貢に成し下し給り、公之執権椿井仁右衛門尉某と称する人有り、此人始て曾與が孝儀を聞て吹嘘し給ふ、因て此挙あることを得たり、…… (西河瑛. “孝女曾與傳.” 日本教育文庫 孝義篇下 (1911): 627–633. https://dl.ndl.go.jp/pid/1708768/1/325 .)”
“孝女事實記 ……志水忠珍公所采、其良臣有椿井由房英士者、仄聞其女有盡孝道之事……安永戊戌(※1778年)仲春 尾陽 島地佐野忠豊撰” (西河瑛. “孝女曾與傳.” 日本教育文庫 孝義篇下 (1911): 632. https://dl.ndl.go.jp/pid/1708768/1/328 .)”
椿井家の系図は伏見義民物語だけでなく儒教的忠臣像の平手政秀や孝子褒賞と関係するようです。義民物語は伝承的なものが多いそうですし、孝子褒賞もどこからが史実でどこからがPRなのかという面があります。平手政秀の系図は仮冒の部分があるそうで、尾張椿井家文書とは時系列が合いません。 中田憲信『諸系譜』の椿井家系図、その中田の師匠鈴木真年の『百家系図』にある三松家を百済王氏末裔とする鈴木の師匠の栗原信充所蔵史料にあったという『三松家系図』、栗原信充の師匠の『寛政重修諸家譜』編者の屋代弘賢という流れを見ると、一連の系図の人為的な部分は彼等の仕事と考えるのが自然ではないのかな?と思うのです。
後世の椿井家の系図の中には、子孫の方々が各地の椿井を調査した成果物も含まれているのかもしれません。
Comments