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椿井文書は全て椿井政隆作??

更新日:2023年12月12日

椿井政隆が椿井文書を作った説は『郷社三之宮神社古文書伝来之記』三宅,1911年(枚方市立中央図書館市史編纂室複写所蔵)にて記録された伝聞を元にとなえられましたが(馬部隆弘. “大阪府枚方市所在三之宮神社文書の分析―由緒と山論の関係から―.” ヒストリア, no. 194 (2005): 94–121. )、まだ証明されていないと思います。

疑問点

  1. 多層な伝聞と信頼性 幕末の椿井権之丞→椿井権之丞遺族→今井良政氏→今井良久氏(府議会議員)→朱智神社中川氏→三之宮神社三松氏→三宅氏という経路で1888年三宅が聴き、 1911年記録した伝聞記録は、直接聞いたものと比較して相対的には信頼性は劣る

  2. 記録は出来事が起きてからかなり時間が経過している 1911年三宅が記録したのは1898年購入した文書類についての1888年頃から経験した出来事

  3. 伝聞の一部が採用され、残りは伝聞から推理したもの。 元のお話 A.幕末 B.椿井権之丞が C.興福寺から持ち出し自宅で保管していた三之宮神社(大阪府枚方市)の縁起書・由緒書や村人達の系図を D.椿井権之丞遺族が E.今井良政へ質入れし F.1895年村人が買い三之宮神社へ納めた A.江戸時代 B.椿井政隆(1770-1837)が C.偽作した縁起書・由緒書等を D.椿井政隆遺族が E.今井良政へ質入れし F.明治20~30年代に各地から来た神職へ販売した へと解釈されている

解釈部分の証明はまだです(2022年10月18日更新)


椿井文書の学説毎の流通過程の比較
椿井文書の学説毎の流通過程の比較(2022/10/18更新)


奈良興福寺由来の古文書というエピソードは中村直勝が記録した椿井文書と一致しているので、今井家ではそのように述べつつ当時販売されていたものだと思われます。

これは、世間の噂では奈良興福寺の古記録類をウンと買い込んだ家が椿井家で、そこに何等かの参考資料があるらしく、それに基いて作為するのであるということであったけれども、果たして、如何なものであろうか。 (中村直勝. 歴史の発見. 人物往来社, 1962:195.)

また、購入した古文書類が椿井文書である査証とされている故意性・作為性については以前の記事で疑問点を書きました。


質入れの事実さえ証明できれば全て椿井政隆作の椿井文書の可能性は出てくるとは思いますがまだなされていません。


他にも下記疑問があります。

  1. 『京都府議会歴代議員録』(京都府議会,1961)717頁では伏見の今井嘉○衛が後継者と記載されているのに 由緒・偽文書と地域社会(2019,勉誠出版)354頁の『京都府議会歴代議員録』の欄では「『京都府議会歴代議員録』(京都府議会、一九六一年)七一七頁。佳平は明治二八年に没し、良政が跡を継ぐ」と記載された件。

  2. 續浪華郷友録(文政六年(※1823年))の「椿井廣雄」(藤本孝一. 中世史料学叢論, 2009, 315–328.初出は1988年)と中田憲信・鈴木真年他『諸系譜』へメモされた「椿井権之助政隆」の実在性と同一性(横山勝行, ed. “『諸系譜』解題”『諸家系図史料集』解題目録. 雄松堂, 1994.)

  3. 「椿井権之輔政隆」記載の史料名とその所蔵先(ふるさと椿井の歴史, 1994:89-90.)(馬部隆弘. “大阪府枚方市所在三之宮神社文書の分析―由緒と山論の関係から―.” ヒストリア, no. 194 (2005). )

  4. 1935年東京帝國大學史料編纂所が調査した飯田家文書が今井良政から譲渡された事を示す史料と 1982年木津町史編纂時の飯田家文書調査時に作成された椿井文書目録の文書名とその所蔵場所 (馬部隆弘, ed. 大阪大谷大学図書館所蔵椿井文書. 大阪大谷大学博物館, 2020:2.)

  5. Twitterの画像を椿井文書と見抜き、その年の飯田家文書調査でそこから抜きだされたものと判明した際の鑑定の再現性(馬部隆弘, ed. 大阪大谷大学図書館所蔵椿井文書. 大阪大谷大学博物館, 2020.)

「古典籍商の方が中世文書としてツイッターにあげていたこの写真です(上掲)。これをみた瞬間、椿井文書だと確信しました」“『椿井文書―日本最大級の偽文書』/馬部隆弘インタビュー.” web中公新書, May 27, 2020. https://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/113747.html.

質入れ古文書類は全て椿井文書?

歴史学者の中村直勝は明治時代にオーダーメイド販売された椿井文書について記録しました(中村直勝. “偽文書ものがたり.” 古文書研究, no. 1 (1968): 29–47. https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I906429-00.)( 中村直勝. 歴史の発見 古文書の魅力. 人物往来社, 1962.)。

木津の今井家と椿井家で販売されたということです。


新しい説では今井家が販売したのは質入れされた椿井政隆作の椿井文書だと述べています。

同家所得の古文書群は、ほぼ全て椿井氏が質入れしたものと考えてよかろう。 (馬部隆弘. “大阪府枚方市所在三之宮神社文書の分析―由緒と山論の関係から―.” ヒストリア, no. 194 (2005): 108. )

質入れ先の今井家にあった古文書がほぼ全て椿井政隆作だという説は『椿井家古書目録』(国立歴史民俗博物館所蔵)にリストされた書画の題名から推測したテーマの地域 近江、山城、河内、大和が、『郷社三之宮神社古文書伝来之記』に書かれた朱智神社中川氏が今井家で見た古文書類の地域 近江、山城・丹波、河内と3/4一致している点から推定されたものですが、(馬部隆弘. “大阪府枚方市所在三之宮神社文書の分析―由緒と山論の関係から―.” ヒストリア, no. 194 (2005): 94–121. )

今井家は山城国にあるので地域性の「3/4」の類似性はたまたまかもしれません。

(『椿井家古書目録』との類似性に関する部分の一章は由緒・偽文書と地域社会,馬部隆弘,2019,勉誠出版で再録されたものでは削除されています)


もしも木津の今井家が販売した縁起書・由緒書等が全て椿井政隆作であれば、 中村直勝の明治時代オーダーメイド説は棄却できます。


全て椿井政隆作椿井文書ならば、今井良政が吉野神宮へ納品した書画等はほぼ全て椿井政隆作椿井文書のはずです(加藤隆久. “吉野神宮と林柳斎.” 神道史研究 32, no. 4 (1984): 294–295.)


中村が記録した今井家と椿井家が今井良久・今井良政かどうかはまだ証明されていません。

東近江市・歳苗神社所蔵「柿御園惣荘絵図」は南山城木津町今井義人から送られたそうですが(p.111,馬部隆弘. 椿井文書. 中公新書, 2020.)、今井義人氏が今井良久氏である理由はとくに書かれていませんでした。


明治時代・神職の木津行き大流行

木津の今井家へ縁起書を買いに行くのが大流行したということは買いに行って見つけられる確率は非常に高かったはずで、 江戸時代の椿井政隆ただ独りで福井県・岐阜県・滋賀県・京都府・奈良県に亘る範囲の神社の縁起書(中村直勝. “偽文書ものがたり.” 古文書研究, no. 1 (1968): 36.)を予め偽作したと考えるよりも、明治時代にオーダーメイドしたと考えた方がマッチング確率から考えて合理的なようにも思えます。

『近江栗太郡志』の編纂が進めにれていた大正一三年(一九二四)に、編集委員で栗太郡志津村長でもある青地重治郎は、編纂主任の中川泉三に対して、「当地方ニ一時各村共木津行大流行致し」たので、栗太郡にも怪しい記録がたくさんあると書簡を送っている。 p.112,馬部隆弘. 椿井文書. 中公新書, 2020.
そのとき南山城の木津に椿井という旧家があって、そこに行けば、どんな神社の縁起書でもあるという噂が立った……大ていの神社の神職は、弁当持ちで、汽車に乗って、椿井家を訪うたものである p.110-111, 中村直勝. 中村直勝著作集. Vol. 5. 淡交社, 1978.

一番不自然に感じるのは、明治時代の宗教的縁起書・由緒書きである椿井文書を論じるにあたり神社合祀と廃仏毀釈について考慮されていない点です。


明治時代のオーダーメイド販売の椿井文書が史実だとすれば、その原因は明治政府の「神社合祀政策」だと思います(華園聰麿. “明治期における神社の廃合の経過と影響 ―中国地方一山村における事例研究―.” 論集 8 (1981): 1–51. http://hdl.handle.net/10097/00127983 .)。江戸時代から続くものですが、多くの神社が統廃合されました。(幕末~明治時代初めの廃仏毀釈はたしか教科書にも掲載されていたと思いますが、神社合祀はもしかすると記載されていないかもしれません。)政府の暴策から小さな神社・祠を護った、隠れたヒーローともいえます。


個人的には、オーダーメイド販売時の「ぶぶ漬け」として、建前上、地元の故実家・椿井氏が昔質入れしてきたのを所有しているという体裁をとったのではないか?と思っています。


明治時代の職人さん作と江戸時代の椿井廣雄の作を同じく「椿井文書」と呼んでいますが、椿井廣雄が古い絵図の模写練習をしたものや、藤本孝一先生が述べられているようにある時代に(ある人物が描いた)という想定図を作ったものだったとしたら?


500年後に伏見桃山キャッスルランドが発掘された時にどのような解釈が与えられるか、今は不明です。




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