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穂谷三之宮大明神年表録は椿井文書??

更新日:2023年12月12日

椿井政隆作椿井文書と云われている『穂谷三之宮大明神年表録』は津田村側穂谷村側両方の史料の特徴を持つ事から考えてそれらを合わせて作成されたものと思われ、その時期はおそらく1878年(明治11年)裁判和解後だと思われます。


椿井政隆(1770-1837)が穂谷村を山論で有利にするために『当郷旧跡名勝誌』の「嘉吉二年棟札」を「嘉禄弐年棟札」へ書き換えたものとは限らないと思います。

訴訟が和解に終わってから訴訟を有利にするために作らせていた古文書を大金を支払って購入するのは矛盾です。


津田山訴訟記

論文では書かれていませんが、少なくとも1567年(永禄一〇年)から数回に亘たって続く津田山訴訟は1878年(明治11年)7月20日交換契約書を締結し津田村と穂谷村他の和解で終わりました(枚方市史第1巻,P.142-143,1967)(片山長三. 津田史一九五七. 津田町, 1957:546-548.)(三宅源治郎. 津田山訴訟記. Edited by 枚方市史編纂委員会. 枚方市, 1973:2.)

1895年(明治28年)、津田村の三宅氏と穂谷村上武氏は木津の今井良政氏から『穂谷三之宮大明神年表録』他を購入しました(片山長三. 津田史一九五七. 津田町, 1957:272-273,497-498.)(馬部隆弘. “大阪府枚方市所在三之宮神社文書の分析―由緒と山論の関係から―.” ヒストリア, no. 194 (2005): 94–121.)

穂谷村が椿井政隆へ依頼した説

2005年論文では、津田山山論を有利にするために穂谷村が椿井政隆(1770-1837年)へ依頼して津田村・尊光寺所蔵『当郷旧跡名勝誌(1682年(天和二年))に書かれた 「嘉吉二年(1442年壬戌)」の棟札を「正嘉二年(1258年戊午)」の前へ配置し、 その「嘉吉二年(1442年壬戌)」の棟札を「嘉禄二壬戌年(1226年・本来の干支は丙戌)」へと書き換え『穂谷三之宮大明神年表録』を偽作させたと書かれています。


山論中なのに、穂谷村の『古跡書』ではなく津田村・尊光寺所蔵『当郷旧跡名勝誌』の記述を元に偽作したことになります。

1649年(慶安2年)頃の棟札を写した『三之宮神社棟札・拝殿着座之次第写』では 「嘉吉(1442年)」の棟札を 「嘉禄(1226年)」と書き間違えていますが、その誤記を利用したとされています。


永仁六(*1298年)年の棟札に新しい時代に出来た村村の名前が記載されている点からも、そのように推測されうるとされています。 馬部隆弘. “大阪府枚方市所在三之宮神社文書の分析―由緒と山論の関係から―.” ヒストリア, no. 194 (2005): 94–121.)


疑問点

同論文に掲載された『三之宮神社棟札・拝殿着座之次第写(慶安2年(1649))で既に 「嘉吉(1442年)」とするべき処を「嘉禄(1226年)」と書き間違えているのがわかります。 1649年頃あった棟札の時点で既に元号が書き間違えられているのであれば 1682年津田村尊光寺所蔵『当郷旧跡名勝誌』の「嘉吉二年(1442年壬戌)」棟札の記述を前へ配置して元号を「嘉禄二年(1226年)」へ書き換えなくても 1649年頃の棟札の「嘉吉二年(1442年壬戌)」記述を「嘉禄二年(1226年)」へ書き換えれば良いだけです。 なにゆえに『当郷旧跡名勝誌』の記述を置き換えたと説明されたのかが不明です。


また枚方市史掲載の『穂谷三之宮大明神年表録』には永仁六(*1298年)年の棟札と新しい時代の村村との間に「点線」があり、これは巻子本の紙の繋ぎ目の記号であると思われます。

その永仁六(*1298年)の後に出てくる元号は慶長八卯年(1603年)元和三丁巳年(※1617年)寛永十七庚辰年(※1640)で300年ほど間が空いています。

汚れや破損またはその他の目的で省かれたのかもしれません。


穂谷三之宮大明神年表録の特徴

穂谷三之宮大明神年表録』は「『世継神社縁起之事』の年代表記」にて引用した「近世の年号形式」で元号が書かれ、三之宮神社年表類の中では最も新しい時代に書かれたものと思われます。

津田村と穂谷村両方の史料の特徴が混ざっているので後世、恐らくは両村が和解した1878年(明治11年)7月20日以降に作られ1895年両村によって購入されたものだと思われます。

永禄一〇年(1567年)から続く山論で和解前は大喧嘩状態だったので、両村の史料を合作するのは難しいと思われるのです。


穂谷三之宮大明神年表録』を2004年論文掲載の翻刻された『当郷旧跡名勝誌』他と比較すると穂谷村と津田村両村の史料の特徴を持つのがわかります。

  1. 「嘉禄二年(1226年)」と「嘉吉二年(1442年壬戌)」の混同は 1649年頃の棟札の『三之宮神社棟札・拝殿着座之次第写』と共通

  2. 「尊延寺の記載も 1649年頃の棟札の『三之宮神社棟札・拝殿着座之次第写』と共通

  3. 「尊延寺粟而」は 1682年津田村尊光寺所蔵『当郷旧跡名勝誌』の「尊延寺東西」と類似した特徴を持つ(※注1)

  4. 「同願主中原」は穂谷村の三之宮神社所蔵『古跡書』(1704年2月~)の「当願主中原」と共通

  5. 芝村」が奉加に入っている点は 1649年頃の棟札の『三之宮神社棟札・拝殿着座之次第写』と 1682年津田村尊光寺所蔵『当郷旧跡名勝誌』と共通(※注1)


江戸時代から続く山論は暴力沙汰になりかけた事もあるそうなので、これ以上の激しい争いを予防するためにも平和の為に作成してもらったのではないでしょうか。

2004年7月論文での『当郷旧跡名勝誌』と『古跡書』は原本を見てそれを翻刻したものでした。

2003年「12月3日尊光寺(津田)史料調査」(p.63,枚方市史年報第8号,枚方図書館市史資料室)とあるので、この時のものと思われます。

2005年論文で引用された『津田史一九五七』片山長三,掲載の『当郷旧跡名勝誌』は、その文面から一行抜けたものと推測された事から穂谷村『古跡書』の一行を挿入して補ったものだということです(※注1)。


2004年7月論文の原本翻刻時に「嘉吉二年」棟札は『当郷旧跡名勝誌』と『古跡書』では違っているのを確認しているはずなのに、

なぜ2004年論文では完全に筆写と判断し、

なぜ2005年論文では2004年論文での翻刻時にどのような文字列があるか見ているはずなのに、一行抜けているかわからないと判断して別の史料『古跡書』から一行抜き出し『当郷旧跡名勝誌』へ挿入したのかは不明ですが、

それにより穂谷村側・津田村側史料に亘る共通した特徴が見えなくなっていました。

にも拘わらず、【記録6】(※古跡書)は天和2年を軸とした記述であることから、【記録10】(※当郷旧跡名勝誌)を完全に筆写したものといえる。 (馬部隆弘. “城郭由緒形成と山論.” 城館史料学, no. 2 (2004): 17.)

(馬部隆弘. “城郭由緒形成と山論.” 城館史料学, no. 2 (2004): 1–37.

2022-05-01:「城館史料学」へ訂正。


『三之宮神社棟札・拝殿着座之次第写』(1649年慶安2年頃)

正喜弐戌牛年(※正嘉二年戌牛は1258年) 聖々賢々 一奉修覆当社御宝殿棟上  当願主津田郷刀称氏津田産人三十余人 同願主中原  同願主漆大自粟田行吉結縁衆野村住人三十余人  大工散位藤井国友宮道藤村 番無時 一奉修復宝殿棟上 嘉禄弐 大年壬戌(※1226年。本来は丙戌) 三月二日  当願主中原津田住人三十余人 奉加穂谷村 奉加 尊延寺村 奉加野村郷卅余人 奉加 芝村  大工 藤原昌次山城国山子宗(惣)交野郡郷也……」 馬部隆弘. “大阪府枚方市所在三之宮神社文書の分析―由緒と山論の関係から―.” ヒストリア, no. 194 (2005): 100-101. 馬部隆弘. 由緒・偽文書と地域社会. 東京都: 勉誠出版, 2019:26-29.

『当郷旧跡名勝誌』(天和二年1682年)

津田史一九五七

「一 奉修復御宝殿棟上 嘉吉二年(※1442年) 大歳 三月二日 壬戌  当願主 中原 同願主 津田住人三十余人  大工 藤原昌次 山城国山子 惣交野郡郷々…… 此時代迄穂谷村芝村ハ非氏子哉。……」 片山長三. 津田史一九五七. 津田町, 1957:286-289.

2004年7月

「奉修復当社御宝殿棟上 正嘉二年大歳戊午(※1258年) 二月十六日 聖人賢□(※) 当願主津田郷刀祢 氏人津田郷住人卅余人 同願主中原 同願主漆大自粟田行吉 結縁衆野村住人卅余人 大工散位 藤井国友 宮道□(※) 香兼時 …… 一奉修復御宝殿棟上 嘉吉二年大歳壬戌(※1442年) 三月二日   当願主中原 同願主津田住人卅余人  奉加 尊延寺東西 奉加 穂谷村 奉加 芝村 奉加 野村郷卅余人  大工藤原昌次 山城国山子 惣交野郡郷々 如此有之、時ハ此時代迄穂谷村芝村ハ非氏子哉、奉加ト有ルガ故ニ、……」 馬部隆弘. “城郭由緒形成と山論.” 城館史料学, no. 2 (2004): 36-37.

2005年3月

「津田村尊光寺に残る由緒書「当郷旧跡名勝誌」(『津』二八六頁)に記される次の棟札写を引用する。 一奉修復御宝殿棟上 嘉吉二年 大歳 三月二日 壬戌(※1442年)  当願主 中原 同願主 津田住人三十余人  奉加 尊延寺村 穂谷村 野村三十余人……」 『当郷旧跡名勝誌』(天和二年1682年),馬部隆弘. “大阪府枚方市所在三之宮神社文書の分析―由緒と山論の関係から―.” ヒストリア, no. 194 (2005): 99. 馬部隆弘. 由緒・偽文書と地域社会. 東京都: 勉誠出版, 2019:24. (参考:片山長三. 津田史一九五七. 津田町, 1957:286-289.)

『古跡書』(※1704年2月以降)旧穂谷村 三之宮神社所蔵

2004年7月

「奉修祓当社宝殿棟上、正嘉二年午(※戊午1258年) 二月十六日 聖人賢人 当願主津田郷刀祓人、 津田郷住人三十余人、 同願主□大自粟田行吉、 結縁衆野村ノ住人二十余人、 津田願主中原 大工散位藤井国友、 宮□村香兼時如無有之 …… 奉修復御宝殿 嘉吉二年戌(※壬戌1442年)三月二日 当願主中原 同願主津田住人三十余人 奉加尊延寺、穂谷村、野村三十余人、大工藤原昌次、山城山子、惣交野郡郷々、 如此有之、然共此時代迄穂谷・芝村は氏子にあらず、但奉加等有之、…… ……右心念寺ハ平野大念仏末寺にて、大谷の東辺に有之候得共、 元禄年中智恩院へ改宗仕候て、心念寺は退転仕候」 馬部隆弘. “城郭由緒形成と山論.” 城館史料学, no. 2 (2004): 16-17. (参考:片山長三. 津田史一九五七. 津田町, 1957:273-278.)


『穂谷三之宮大明神年表録』(1640年以降)

枚方市史第6巻

「……治承二(*1178年)戊戌年、再興、中原朝臣副雄、山田宿称百範並惣庄住人等、尊延寺脇之坊良海、明尾寺慈源、 - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - -(※紙の繋ぎ目) - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - 一貞応元(*1222年)壬午年九月十八日亥剋賊党社頭炎上云々、 其後再興、 一奉修覆御宝殿棟上、   嘉禄壬戌年三月二日 (※1226年本来は丙戌)   当願主中原 津田村住人卅余人   奉加 尊延寺粟而(マヽ)同穂谷村、同芝村、野村郷卅余人   大工藤原昌次 山城国山子 惣交野郡郷也、 一奉修覆当社御宝殿棟上、   正嘉二戌牛年、 聖々賢々 (※1258年)   当願主津田郷刀称(禰)氏、   同願主中原惣(宗)津田郷産(住)人三十余人   同願主 粟田行吉、結縁衆、野村住人三十余人、   大工散位藤井国友 宮道藤村 一奉建立牛頭天皇(マヽ)御宝殿 永仁六(*1298年)戊戌四月九日  上下遷宮尊延寺別当上西原坊浄海 - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - -(※紙の繋ぎ目) - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - 奉加津田、長中、藤坂村、尊延寺輪番衆、穂谷、杉村惣中、 慶長八卯年九月十三日(※1603年) 改正書記畢、 一 元和三丁巳年九月六日(※1617年)、奉上葺、 津田穂谷尊延寺藤坂杉惣中…… 寛永十七庚辰年八月六日(※1640年)…」 枚方市史編集委員会. 枚方市史. Vol. 6. 枚方市役所, 1968:268-269. 参考:馬部隆弘. “大阪府枚方市所在三之宮神社文書の分析―由緒と山論の関係から―.” ヒストリア, no. 194 (2005): 97–98. 参考:馬部隆弘. 由緒・偽文書と地域社会. 東京都: 勉誠出版, 2019:20-23.

2005年3月

「一奉修覆御宝殿棟上   嘉禄壬戌年三月二日 (※1226年本来は丙戌)   当願主中原津田村住人卅余人   奉加 尊延寺粟而・同 穂谷村・同 芝村・野村郷卅余人…… 一奉修覆当社御宝殿棟上 正嘉二戌牛年(※1258年) 聖々賢々 当願主津田郷刀称(禰)氏 同願主中原津田郷産人三十余人 一奉建立牛頭天皇御宝殿 永仁六(*1298年)戊戌四月九日  上下遷宮尊延寺別当 上西原坊浄海 奉加津田長中・藤坂村・尊延寺輪番衆・穂谷・杉村惣中 ……寛永十七庚辰年八月六日(※1640)……」 『穂谷三之宮大明神年表録』,馬部隆弘. “大阪府枚方市所在三之宮神社文書の分析―由緒と山論の関係から―.” ヒストリア, no. 194 (2005): 97–98. 馬部隆弘. 由緒・偽文書と地域社会. 東京都: 勉誠出版, 2019:20-23. (参考:枚方市史編集委員会. 枚方市史. Vol. 6. 枚方市役所, 1968:268-269.)


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