「義民物語と椿井文書」(2023年5月7日)では改易となった小堀政方子息と椿井氏と内藤氏の名前に類似があり、小堀政方の妻が桂昌院の姪孫である事、椿井政堯(小堀政弘と尾張家家老渡邊貞綱女との息子)の祖母が遠藤胤親(白須数馬)の例がある瑞春院の姪孫であることから、人事に影響力があったという大奥の影響と、椿井氏の山城・尾張・江戸の広域をまたがる系図は中田憲信や彼の師の鈴木眞年(1831~1894)と鈴木の師の栗原信充(1794~1870)と栗原の師の屋代弘賢(1758―1841)の仕事である可能性を記載しています。彼等は系図学の大家です。
椿井紀伊と山城国椿井氏
山城椿井氏が江戸幕府へ仕える機会を得たのは上記の桂昌院を側室とした徳川家光の父である徳川秀忠と家光の生母である崇源院へ仕えた椿井城城主椿井政長の女椿井きい(寛政重脩諸家譜では椿井紀伊)の存在が大きいとXで考察しました(下記に引用)。その桂昌院と徳川家光の間に産まれた徳川綱吉の側室が上記の瑞春院です。
また一連の文書群とその周辺から「義民物語と椿井文書」(2023年5月7日)でふれた山城国一揆の椿井懐専についても考察しています。尾張椿井家文書と平手氏の系図-徳川家や南朝ともつながる-と江戸の椿井家と山城椿井家と尾張椿井家の伝承と史実が混淆しているようなのですが、考察過程として下記にて引用します。 椿井家は『寛政重脩諸家譜』で足利尊氏に仕えたと書かれていますが、平手氏とつながれば徳川家と同じく南朝方につながります。南朝方につながる系図は明治時代南朝後醍醐天皇に仕えた由緒で士族となった南山郷士に加わるには有用である事から、ここに系図の意図があるのではないかと仮説しています。(参考:「田辺町普賢寺の大西家文書と南山郷士」 田中淳一郎,1994)
紀州徳川家と河内国交野郡の津田城
徳川将軍家の大奥が人事へ影響を与えた可能性ですが、旧紀州藩における津田監物算長の先祖は旧河内国交野郡津田城の津田周防守正信という伝承も徳川将軍家のニーズで整えられた由緒ではないかと見ています。
徳川家康三女の振姫の墓がある紀州和歌山の光恩寺を開いたのは津田監物算長の長男の津田監物算正( 光恩寺,浄土宗大辞典)ですが、1716年徳川吉宗が征夷大将軍に就任した事がきっかけとなり光恩寺を建立した津田氏の先祖譚を楠木正成公末裔津田周防守正信の伝承(289頁,津田史,片山長三,1957)とあわせることで由緒を整えたと仮説すれば、厳密にいうとそれが伝承の発見か創作かは不明ですが、紀州側で突然津田監物算長の河内国交野郡先祖譚が出て来たタイミングと合致します。
鈴木眞年(1831~1894)は紀州徳川家で系譜編さんの仕事に従事していましたが、彼の弟子の中田憲信の楠氏系図や『諸系譜』では津田周防守正信は楠木正成の孫と書かれています。徳川家での彼等の仕事ではないでしょうないでしょうか。
「(楠木)正成……正儀……-正信 周防守 實摂津守百済武信男正儀爲猶子 居河内國交野郡津田村 應永十九年於伊勢國一身田戦死」 (255頁,西摂大観,神戸市之部,上巻,明輝社,1911. https://dl.ndl.go.jp/pid/765780 )
「(楠木)正成……正儀……-正信 津田周防守」 (『諸系譜』第6冊,(写). https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/10301743/1/121)
津田城築城年代
1957年片山長三は『津田史』305~312頁で旧河内国交野郡津田村の津田城の築城年代について昭和31年3月から5月の国見山津田城跡発掘時出土物から将軍足利義持(~1428年)の時代より少なくとも十数年後以降となるはずだと推定、旧津田村三宅氏、旧穂谷村上武氏が山城木津町の今井良政氏から三之宮神社古文書類と共に譲り受けた『津田氏家系記録』に記載されている建武三年(1333年)築城はありえないため後世の創作であると指摘しています。
「九、津田氏家系記録(三宅……氏写本) 私はかつて三宅……氏の令息を通じて、同家所蔵の津田氏(中原氏から改称したという) の家系図一覧を乞うたところ、わざわざそれを別紙に写して私に与えられた。この原本の系図はもと津田にあつたものが、山城木津町の今井良政氏手許にわたつていると聞いた前村長三宅……氏は穂谷上武……氏とともに今井氏方へ行つて三ノ宮諸記録等と同時に譲りうけたものである。 ……五畿内の系図ではほとんど忠臣楠氏に何らかのつながりをもたせ、系図上の南朝勤王家があまりにも多く製作せられすぎている。 ……私はかねて考古学的立場から、国見山城址の構造、その土中に包含する器物片を見たく希つていた……津田小学校教員職君の協力を得て、昭和三十一年三月から五月にかけて数回城址の探査を行った……地表下約三十センチに焼土層がひろがつていた。これは記録にのこる天正三年織田勢焼討の火災の跡であり、その下は地山(ぢやま)まで十五センチ。この間は焼土を見ないが、その底部に近く四個の磁器片及び瓦器片が見られた。この磁器片のあつたところは天正三年の火災よりも下位にあつて火災よりも古いが、その厚さが約十センチ位で地山に達する。この厚さと包含物(磁器片)によつて築城から火災までの年数は百年もへだゝつていないことがわかり、延徳年間に津田周防守正信が築いたとすればこの火災まで約七十余年で砂層の厚さと大たい匹敵する。この砂層中から見つかつた四個の磁器片は釉(うわぐすり) の下に呉須(ごす-藍色)で模様をつけた茶碗である。このような染付磁器の製造は我国では秀吉の朝鮮征伐以後のことで、一般にひろまつたのは江戸時代の初期からであつた。したがつてそれが織田氏の国見城を焼くよりも以前の下層から出たということは、明かに支那からの舶載品である。支那で染付がさかんにできるようになつたのは宣徳の時代(元年は一四二六年応永三三年)足利五代将軍義持の頃からであるが、これがわが国へ輸入できるまでになつたのはそれより十数年後となるだろう。この磁器片が地山に近いところから出たということで、この城の築造年代は鎌倉や南北朝時代ではないことが決定するのであつて、したがつて系図に書かれている中原範高建武三年津田城築造の説は成り立たず、系図作者が忠臣範高を作ろうとした意図はこれによつて確実に崩れるのである。」 (305-312頁,片山長三. 津田史. 創立八十周年記念事業発起人会, 1957.)
三松氏と栗原信充
また、弁護士の宝賀寿男先生によると栗原信充の孫の信優は百済王氏末裔の系図を持つ三松氏の三松俊明の養子(女婿)となっているそうです http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/kudamimakeizu.htm 。「義民物語と椿井文書」(2023年5月7日)でふれた『郷社三之宮神社古文書伝来之記』三宅(1911)では三松氏は百済国から渡来した博士王仁の子孫と書かれています。旧菅原村が伝王仁墓申請時に参考資料として大阪府へ提出した『王仁墳廟来朝紀』は村長が明治初年頃入手したらしいのですが、三松氏・三宅氏・上武氏が今井家から手に入れた三之宮神社古文書類(津田史,片山長三,1957)もそれも栗原氏または鈴木眞年または中田憲信がなんらかの形でかかわっているのかもしれません。三松氏は砲術家で、百済王神社周辺は陸軍最大の禁野火薬庫でした。伝王仁墓周辺の土地は旧日本軍の所有地があり大阪第一陸軍共済病院が建設され、砲術の訓練もおこなわれていたそうです。「伝王仁墓と椿井文書」(2022)でふれた尊光寺所蔵『当郷旧跡名所誌』(1682)にて王仁が埋葬された字御墓谷の御墓山は百済王氏の墓所と書かれています。
(メモランダムのタグの単語は省略して引用しています。学術論文で使用される「シカゴ形式」のX(旧Twitter)引用形式で引用していますが複数投稿なので省略した形式になっています。)
眞葛原雪 (@pririn_). “大猷院殿御実紀巻「寛永四(1627)年十月廿八日椿井喜之助政安初て拝し奉る……代々山城国椿井の城主たり。後に所領を失ひ梅庵と號せしが。その女七歳の時より。崇源院殿の御側につかへ。……大御所……。政安は幼より南都般若寺子院妙覚院の食客と……」 https://www.digital.archives.go.jp/img/3695460 X, 2021年12月13日,午後11:45.https://x.com/pririn_/status/1470404493447933952 . 寛政重脩諸家譜の椿井政安(~1670)は、椿井政隆が自らの先祖とした椿井定房の弟政吉の三男・政安。 大猷院殿行った時、山城国の椿井城を失ってたから政長・定房の時だろうか。 政安は後に書院番となるから、 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718/528 X(Twitter), 2021年12月13日,午後11:54 .https://x.com/pririn_/status/1470406657801097216 . 大猷院殿御実紀26巻の寛永十一年12月 https://www.digital.archives.go.jp/img/3695476 政安は書院番となるから『寛永諸家系図伝』へ影響する事ができたのではないだろうか。 X(Twitter), 2021年12月14日,午前0:03 .https://x.com/pririn_/status/1470409069311979520 . 寛永諸家系図伝で政安の先祖の政吉が長男と書かれたのは、政安が書院番だったからじゃないかな。 https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M2016080216240343666 X(Twitter), 2021年12月14日,午前0:15. https://x.com/pririn_/status/1470411995271036934. 椿井政安が寛永諸家系図伝の頃の御書院番だけど、その後はその兄の政次の家系が内藤家となって神田の御書院番となる。 でも寛政重脩諸家譜の編纂が始まる2年前の寛政9年に、また椿井政安の家系の政堯が御書院番に。…… https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718/529 ” X(Twitter), 2021年12月14日,午前1:12. https://x.com/pririn_/status/1470426286502084609 . 寛永諸家系図伝藤原氏癸8(57コマ) https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M2016080216240343666 では正安の妹の椿井きいが大奥で奉公していた「法名智慶……女中がたの作法を制す……七歲より崇源院殿……高徳院」寛政では姉? https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718/527 江戸城本丸女中法度の基礎的研究,福田千鶴 https://doi.org/10.15017/4403304 X(Twitter), 2021年12月14日,午前9:54. https://x.com/pririn_/status/1470557865299804170 . 政安の姉妹の椿井きいが7才から崇源院(徳川秀忠の妻・家光公の母)の御側に。 政安の兄・政次も父の代にあっている台徳院(秀忠)に仕え息子の内藤正興は常憲院(綱吉)へ。 政安も山城国の椿井城を失った後大猷院で所領を受け、寛政11年書院番へ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718/528 。 X(Twitter), 2021年12月14日,午前10:16. https://x.com/pririn_/status/1470563386962620416. 御実紀の「梅庵と號せしむは寛永諸家系図伝癸8(54コマ)の政長 https://www.digital.archives.go.jp/img.pdf/4138725 。 大猷院殿御実紀第10巻「寛永四(1627)年十月廿八日椿井喜之助政安初て拝し奉る……代々山城国椿井の城主たり。後に所領を失ひ梅庵と號せしが https://www.digital.archives.go.jp/img/3695460 」 X(Twitter), 2021年12月14日,午前10:47. https://x.com/pririn_/status/1470571103664091136. 椿井政長が山城国椿井城を失ったのは政吉討ち死にの1612かも。 定房(政定)の家系図はなくただ山城国椿井村に子孫続くとある。 定房の尾張国中島郡の所領があるから、志水家家臣後に尾張藩士の椿井家がその末裔の可能性はあるんだけど椿井姓は多系統あり https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718/527 X(Twitter), 2021年12月14日,午前10:52.https://x.com/pririn_/status/1470572276383117316. 椿井定房(政房)兄弟の政勝は興福寺衆徒。興清は興福寺阿弥陀院住職だけど天文元年(1532)七月十日大和天文一揆で焼失してるはずだから、再建されたのかな?姉妹は斑鳩の中宮寺?の尼僧と本庄大蔵大輔秀義が妻。誰だ?? https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718/527 X(Twitter), 2021年12月14日,午前11:40.https://x.com/pririn_/status/1470584501189619713. 寛永諸家系図伝は政長が信長からもらった文書を掲載してる(55コマ) https://www.digital.archives.go.jp/img.pdf/4138725 けど寛政重脩諸家譜では未掲載。 松永久秀親子についてだから…… 興味深いのは2007年平群町へ持参された X(Twitter), 2021年12月14日,午前11:52.https://x.com/pririn_/status/1470587451236560900. 2007年平群町へ複数の椿井家系図を持参した岐阜の椿井氏の尾張国椿井家文書の中に烏兎90号掲載の足利義満朱印状(偽文書?)と共にあった91号掲載の織田信長書状写しにも、別の内容の信長が椿井氏へ宛てた松永久秀親子に関する書状写しがある点。 ここに後世の人の目的を感じる X(Twitter), 2021年12月14日,午前11:55.https://x.com/pririn_/status/1470588114830000132.
𦮙 (@TaniYoko). “1798年月御書院番になった椿井政次の弟・政安の末裔の椿井政堯(まさたか)や1797年家督を継ぎ将軍家へ仕えた政次の末裔の内藤正常が共通先祖政勝の子の定房の山城国側末裔27歳の椿井政隆(1770-1837)と連絡をとりあって家系図を受け取りそれを採用するってあり得るかしら?” X(Twitter), 2021年12月14日,午後0:51.https://x.com/TaniYoko/status/1470602359600738310.
眞葛原雪 (@pririn_). “椿井政隆がある椿井家系図の『諸系譜』を編じた中田憲信の師の鈴木眞年(1831~1894)の師の栗原信充(1794~1870)の師の屋代弘賢(1758―1841)が『寛政重修諸家譜』編集従事者。 1792年柴野栗山と京大和古社寺宝物調査紀行して『道の幸』を著してる https://wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_01559/index.html X(Twitter), 2021年12月14日,午後2:00.https://x.com/pririn_/status/1470619640640708612. 『道の幸』著者で『寛政重修諸家譜』編集従事者の屋代弘賢経由で『寛政重修諸家譜』へ大和国平群椿井云々が入ったのかもしれない。その不思議な系図が弟子へつながり『諸系譜』へ収録された? https://x.com/TaniYoko/status/1470602359600738310 X(Twitter), 2021年12月14日,午後2:03.https://x.com/pririn_/status/1470620458488074241. 『諸系譜』の編者中田憲信の師の鈴木眞年が編集した『百家系図』(1831~1894)の小堀家・椿井家系図は師の栗原信充(1794~1870)の師の屋代弘賢(1758―1841)が編した『寛政重修諸家譜』の元の系図かその写しだけど椿井政吉からなので由来諸説ありなのかも。 X(Twitter), 2021年12月14日,午後10:51.https://x.com/pririn_/status/1470753340758032384. 鈴木眞年が編集した『百家系図』に小堀家・椿井家系図の元文がありかつ『百済王三松氏系譜』があるということは、一連の騒動は徳川家と明治新政府の弾正台で勤務した鈴木眞年と中田憲信達が関与してるんじゃないかな。…… X(Twitter), 2021年12月14日,午後11:00. https://twitter.com/pririn_/status/1470755463126208515. ……三之宮神社古文書類含む古文書が幕末椿井権之丞により興福寺から持ち出され明治8年頃今井良政へ質入れされ今井良久が所有してると1888年三宅源治郎へ教えたのがその三松氏。” X(Twitter), 2021年12月14日,午後11:06.https://twitter.com/pririn_/status/1470757196753682434. 『百家系図』を編した鈴木眞年も『諸系譜』を編した弟子の中田憲信も弾正台で勤務してる。椿井政隆の息子の椿井万次郎も弾正台で勤務したと『諸系譜』には書かれてる。三宅源治郎は1911年三松氏は「王仁博士末裔」と書いている。椿井文書説がある「王仁墳廟来朝記」は幕府系図方から流出とある X(Twitter), 2021年12月14日,午後11:12.https://x.com/pririn_/status/1470758616290689031 . 。『諸系譜』では椿井権之丞は椿井政隆の父だけど東大所蔵浅田家文書によると非常に貧しかったようで、椿井政隆が諸国を調査旅行したとは思い難い http://lib.e.u-tokyo.ac.jp/?page_id=1908 椿井政隆独りで椿井文書を製造したというのは、うちはやはり疑問かな。 X(Twitter), 2021年12月14日,午後11:18.https://x.com/pririn_/status/1470760086897586180. 『東日流外三郡誌』はかなりの部分が類似した内容の表現を変えた短文のリフレインになっているから1人で大量の文書を書いた説もあり得ないわけではないなとは感じるけれど椿井文書は結構綿密に調査してたりする。貧しい椿井権之丞の息子にそれができたのかどうか。 X(Twitter), 2021年12月14日,午後11:21.https://x.com/pririn_/status/1470760868908793856. 類聚國史10巻神祇常祀の項天長元年(八二四)八月丁酉(五日)条「依従三位右衛門督兼播磨権守紀朝臣百継。従四位上行越前加賀守紀朝臣末成等奏。紀氏神?幣帛例 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950692/79 」は平群坐紀氏神社 google.co.jp/books/edition google.co.jp/books/edition と。『諸系譜』紀朝臣を X(Twitter), 2021年12月15日,午後0:07.https://x.com/pririn_/status/1470953541162668036. 鈴木真年&中田憲信『諸系譜』巻1の紀朝臣を見ると 武内宿禰の子孫に平群真鳥・鮪の先祖平群木兎宿禰と 平群坐紀氏神社幣帛の紀百継の先祖紀角。 巨勢氏の巨勢男韓宿禰。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10301738/46 大和志料,上巻(1914)の「椿井城」に https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813/354 X(Twitter), 2021年12月15日,午後0:25.https://x.com/pririn_/status/1470958081094078464. 大和志料,上巻(1914)の「椿井城」に https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813/354 「郷士記に椿井山城島左近と即此、……巨勢系図に引ける官務録に見ゆ。曰く、“文明18年……12月筒井と椿井と爭論同26日島左門と相戦ふなり同28日椿井越前入道懐専討死ある……”」と。この原典が不明だけど島左近や椿井氏 X(Twitter), 2021年12月15日,午後0:27.https://x.com/pririn_/status/1470958578316242944. 島左近(嶋左近)や平群の椿井氏といった郷土史の世界は 大和志料(1914)のこの記述からなのかも?? X(Twitter), 2021年12月15日,午後0:28.https://x.com/pririn_/status/1470958873809141763. 椿井越前守政里とは誰だろう? 平手英秀(尾張春日井郡小木・志賀城主);母・椿井1越前守政里女。(宝徳3年2月5日(1451/3/08)~明応9(5)年10月2日(1500/10/24 or 1496/11/06)戦死。(『尾張群書系図部集下巻』(1997)P.825) X(Twitter), 2021年12月15日,午後0:46.https://x.com/pririn_/status/1470963464126746629. 群書類從第五輯卷第六十三の巨勢氏系圖 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879458/171 と 紀氏系図 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879458/137 。 紀氏の先祖は平群真鳥。『諸系譜』では紀角 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10301738/46 。 群書類從では平群坐紀氏神社幣帛の紀百継の先祖は平群真鳥になる。 X(Twitter), 2021年12月15日,午後1:25.https://x.com/pririn_/status/1470973269176385536. 岐阜の椿井氏が平群町へ持参した椿井家系図。美濃国の椿井郷。寛永年間の「蔭涼軒日録」寛正6年5月7日条「常徳院領濃州椿井郷就海道之事」 http://jlogos.com/docomosp/word.html?id=7345326 X(Twitter), 2021年12月15日,午後2:38.https://x.com/pririn_/status/1470991745261645824. 1471/6/30大内政弘が山城国椿井城をおとしてる。 (大乗院日記目録、経覚私要鈔、大乗院寺社雑事記) これは大北氏が新たに構えたもの(p.50) http://kyoto-be.ne.jp/yamasiro-m/cms/?action=common_download_main&upload_id=338 X(Twitter), 2021年12月15日,午後2:49.https://x.com/pririn_/status/1470994503540801536. これは地域的・時代的に椿井文書の可能性があるから保留 「岡田加茂神記巻……文安四……椿井越前守平群藤原政里」P.188-189,京都府相楽郡誌(1920) books/google.com X(Twitter), 2021年12月15日,午後3:12.https://x.com/pririn_/status/1471000122482098177. 大乗院寺社雑事記文明4年10月4日 椿井絵所と吐田絵所の揉め事。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3450588/171 大乗院寺社雑事記 第52冊39コマ https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000001561 に12月14日の「當門跡繪所吐田筑前法橋事、山城椿井申懸非分儀 http://id.nii.ac.jp/1440/00007655/ (森末義彰先生) 」椿井絵所は山城椿井? https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000001561 X(Twitter), 2021年12月15日,午後11:48.https://x.com/pririn_/status/1471130105103945728. 文明年間(1469-1487)には山城国に椿井絵所があった。巨勢氏末裔の吐田絵所と悶着した。 もしかしたらここが山城の椿井氏が平群氏末裔を名乗るキーかも?? 紀氏系図によると巨勢氏先祖の小柄宿禰よりも平群氏先祖の木菟宿禰の方が年上だから…… https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879458/137 X(Twitter), 2021年12月16日,午前0:13.https://x.com/pririn_/status/1471136332030578690. 大乗院寺社雑事記第101冊62コマ目の文明17(※1486)年12月29日に「伝聞椿井加賀公懐?(?)……切腹」と。 椿井氏側はこれが平手英秀(1451/3/08~1500/10/24 or 1496/11/06)の母・椿井越前守政里女の父(尾張群書系図部集下巻』(1997)P.825)説を取るけど証拠が https://digital.archives.go.jp/gallery/0000001610 X(Twitter), 2021年12月16日,午前0:59.https://x.com/pririn_/status/1471147844170305537. 大乗院寺社雑事記(尋尊大僧正記)長禄二年(1458)閏正月一三日条「山城國菅井庄事、去享徳三年( 1454)東北院口入ノ間、椿井ニ申付之、請文案如此、……“畏而請申入候菅井庄御米間事合貮拾石余者……享徳三年十月廿八日 椿井懐専(判)”管(菅)井古河庄近来取能分…」 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190437/181 X(Twitter), 2021年12月16日,午後0:06.https://x.com/pririn_/status/1471315807175327748. 1454年椿井懐専は山城国椿井の対岸の菅井庄の役人に。 熱田公先生は狛野荘の椿井だという(460頁中世寺領荘園と動乱期の社会)けど理由は書いてない。もしそうなら google.com/maps/ X(Twitter), 2021年12月16日,午後0:06.https://x.com/pririn_/status/1471317315019227140. 平手氏の母・椿井越前守從五位下大膳大夫藤原政里女の父が大和の平群の人なら、椿井懐専じゃないのかも。大和平群←→山城狛野庄なら、ありだけど。 X(Twitter), 2021年12月16日,午後0:23.https://x.com/pririn_/status/1471320089375145985. 大乗院寺社雑事記(尋尊大僧正記)康正三年四月二十八日条(1457/5/21)大乗院家坊人名に椿井氏が出てくるhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190437/76 X(Twitter), 2021年12月16日,午後1:12.https://x.com/pririn_/status/1471332467768725504. 「一 一乗家御坊人名字依次有記之、“筒井 龍田(大乗院ニ兼参)……木津執行 以上宗徒分……片岡……嶋……平郡(群)新……以上國民”一 大乗院家坊人命字、“古市……椿井……長谷寺執行 以上宗徒”“……立野……以上國民 炭電(竃)山城国住……”」椿井文書メモ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190437/76 X(Twitter), 2021年12月16日,午後1:13.https://x.com/pririn_/status/1471332665093943300. 大乗院寺社雑事記文明一七年一〇月一四日条に「椿井城」。これは山城国なんだろうな https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155249/196 天王畑城(朱智神社のすぐ上)も見える。 朱智神社はこの城の為に移築した物だったりして…… https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155249/197 X(Twitter), 2021年12月16日,午後4:51.https://x.com/pririn_/status/1471387463361110017. 大乗院寺社雑事記文明17(※1486)年12月29日に「伝聞,椿井加賀公懐専……切腹」と https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155249/207 。これ(62コマ https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000001610 )をどうやって「専」と……” X(Twitter), 2021年12月16日,午後4:56.https://x.com/pririn_/status/1471388828070219780. 『烏兎』85・86号では、椿井政里→政信→筒井順興→順政→順勝→筒井順慶(和州郡山城主)。この系図は…… X(Twitter), 2021年12月16日,午後6:44.https://x.com/pririn_/status/1471415991762841601. 享徳三年(1454)10月28日山城國菅井庄の椿井懐専 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190437/181 文明17(1486)年12月29日伝聞,椿井加賀公懐専切腹 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155249/207 文明18(1486)年12月28日討死,椿井越前入道懐専92歳(大和志料,上巻) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813/354 だから誕生1395年 X(Twitter), 2021年12月16日,午後10:14.https://x.com/pririn_/status/1471468712339570690. 大和志料の椿井越前入道懐専は(1395-1486)。 大乗院寺社雑事記菅井庄椿井懐専と同一人物なら59歳で代官。 文明17年の切腹は伝聞ゆえ翌年生存の可能性は0ではないけど 別人かも?だって翌年死亡したなら雑事記に書くだろうし。 X(Twitter), 2021年12月16日,午後10:14.https://x.com/pririn_/status/1471468803020435457. 世良田氏の末裔、平手英秀(1451~)の母の父・椿井越前守政里(尾張群書系図部集下巻,1997)と椿井懐専が同一人物なら面白いんだけれど。尾張群書系図部集の元の史料の墨で書いた文字を見ないとわからないな。 X(Twitter), 2021年12月16日,午後10:15.https://x.com/pririn_/status/1471468912458235910. 『烏兎』83・84号P.43-44の2007年岐阜の椿井氏が平群町へ持参した系図「椿井政里従五位下越前守大膳大夫……懐専」と女は椿井越前守政里女(825頁,尾張群書系図部集下巻,1997)と一致してるけど作成年不明。 X(Twitter), 2021年12月16日,午後10:15. https://x.com/pririn_/status/1471468983933345792. 大乗院寺社雑事記の"椿井加賀公懐専"と尾張群書系図部集の"椿井越前守政里"をを同一人物とできる系図を大阪市在住の椿井氏が昭和時代に、岐阜在住の椿井氏が2007年に平群町へ持参した。それぞれの系図の成立時期は??” X(Twitter), 2021年12月16日,午後11:39.https://x.com/pririn_/status/1471490276275650566.
眞葛原雪 (@pririn_). “孝女説話『孝女會與傳』西河瑛,(1778)が説話文学なら椿井仁右衛門 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1708768/327 は仮想人物かも。 では『紙魚』P.1129,1977年復刻,愛知県郷土資料刊行会(元はP.17,紙魚,第28冊,1929/4)の「椿井由房英士」はどこから来たのだろう?平手氏(野口氏)系図からか?” X(Twitter), 2021年12月20日,午後0:16.https://x.com/pririn_/status/1472767803027779591.
Comments