伝承の碑「伝王仁墓」。王仁(和邇吉師)の伝承の存在・非存在の史実について。
(A) 1682年尊光寺所蔵『当郷旧跡名所誌』や1689年貝原好古『八幡宮本紀』にて既に 王仁の「塔石」や「王仁墓」が記録されていることから、 五畿内志の並河誠所(1668-1738)が1731年頃王仁墓へ来る前から王仁墓は存在しているとわかります。
1791年西法寺所蔵『河内国交野郡藤坂村旧記』では往古より自然石の石碑があり並河誠所が1731年御巡見された際に王仁塚とし、すぐに“御上”が自然石の前に石碑を建立したと記録されています。 もし椿井政隆(1770-1837)が菅原村村長が明治初年に購入した『王仁墳廟来朝記』の作者だとしても、彼の誕生以前のこれらに影響を与えることはできません。
史実として少なくとも17世紀には伝承は存在していたと言えると思います。
(B)『譚海』津村淙庵,1795年で「水戸光圀卿御糺しありて、王仁博士墓と云(いふ)文字を碑に刻し、石の前に建られたり」とあるので、元禄5年か否かは不明ですが光圀公の記録はあるようです。
1731年頃の領主は水戸家の家臣・久貝太郎兵衛正武の実子・久貝正順なので、水戸家(と縁が深い)領主・久貝氏と水戸光圀公の混同が生じた可能性があると思います("巻第千三十六 藤原氏支流 久貝"寛政重脩諸家譜. 第6輯,國民圖書,1923 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082716/203 ) 。
民俗学や宗教学等の研究対象でもある伝承は、歴史学等の研究対象である"史実"との混同を回避するためにも明確に伝承民話として保存する方が良いと考えています。
A
「大阪府枚方市の伝王仁墓は、並河誠所……彼の建言を容れた当地の領主久貝氏によって石碑が建てられる。 ……文政一〇年(一八二七)に……家村孫右衛門が、有栖川宮家の臣大石兵庫と謀って新たな顕彰碑を建立する。それと同じころに椿井政隆も「王仁墳廟来朝記」を著し、少なからず批判があった並河誠所の説を補完しようとした。 ……現在も王仁墓の史跡指定は解除されておらず……並河誠所による『五畿内志』の安易な一文と、それを補完しようとする椿井文書が相互に補完することで成立した極めて危うい説ではあるものの……並河誠所があたかも実見したかのようなものを創ることで信じ込ませるのが、椿井政隆の常套手段であった。それに素直に従って、椿井文書たる「王仁墳廟来朝記」を信用した文章となっている」 -P.174-177,椿井文書,馬部隆弘,中公新書,2020
B
「……一説によれば、元禄五年(一六九二)に水戸黄門が諸国を視察した際、湊川神社(神戸市)の楠木正成の墓碑とともに王仁墓にも石碑を建立したという。……いうまでもなく講談や時代劇の世界……家村孫右衛門が建立した石碑をその水戸黄門によるものと覆すのだから、もはやここには史実を追及しゆうとする姿勢は一切ない。」 -P.175,椿井文書,馬部隆弘,中公新書,2020
1616年王仁墳廟来朝紀(椿井文書??)
1939年10月10日朝日新聞大阪朝刊によると明治初年に伝王仁墓の地元の菅原村村長が購入、昔は幕府系図方が保管していたもので東洋史学者の中山久四郎がお墨付きを与えたと報道されています。“日本の文化の恩人 王仁の顕彰運動 近く北河内に神社建立”朝日新聞大阪朝刊,1939年10月10日
「夫百濟國博士王仁者漢高帝之後裔有[㆓]曰[㆑]鸞ト[㆒]者、鸞カ之後王狗轉 至[㆓]百濟ニ[㆒]、當テ[㆓]百濟久素王ノ時ニ[㆒]我 朝人皇第十六代譽田天皇(應神帝)馭宇十六年乙巳春二月遣[㆑]使召ス[㆓]文人ヲ[㆒]、久素王即チ王狗之孫王仁ヲ来貢焉、則来朝以テ[㆓]難波津(仁)咲屋此花冬篭之哥詠ヲ[㆒]奉ル[㆑]祝[㆓]我朝御代萬歳ヲ[㆒]、應神天皇 叡感以テ[㆓]百濟王仁學士ヲ[㆒]則二皇子莵道稚郎子及大鷦鷯王(人皇第十七代仁徳天皇)之爲ス[㆑]師ト習フ[㆓]諸典籍ヲ[㆒]、是本朝之儒風之始祖也、儒學於テ[㆑]是(仁)興ル、則我朝學校之権輿也、爲シテ[㆓]封戸ト[㆒]以テ[㆓]大倭國十市縣ヲ[㆒]百濟王ノ博士王仁ニ賜フ[㆓]食禄ヲ[㆒]、今大和國十市郡百濟郷是也、王仁及テ[㆑]没ニ河内文ノ首ノ始祖博士百濟墓(與)紀書葬ル[㆓]河内國交野縣藤坂村ニ造テ[㆑]墓ヲ[㆒]、則藤坂村艮(東北)稱ス[㆓]字御墓谷ト[㆒]、土俗於爾(オニ)之墓ト誤訛ス 一 百濟王仁社 於テ[㆓]和泉国大鳥郡ニ[㆒]王仁ヲ東原大明神ト尊称ス(在向井之北)、祭神百済王仁相殿素戔烏尊ニ坐也 右以本巻紀書之後世備不朽置所蓋如斯者也 交野郡五箇郷住侍百済裔孫 西村大学助俊秋次子 禁野和田寺住侶 道俊(花押) 元和二辰年正月」 -P.104-105,大阪府史跡指定五十周年記念 王仁塚,王仁塚の環境を守る会会長,馬杉次郎,1989/11/3
1682年当郷旧跡名所誌の王仁の塔石
「御墓山之山 一 ……御墓谷と云字あり。古老の伝説には中宮村住居之 百済王の御墓と云へり…… 上ノ堂の事 一 ……九十余年以前に太閤当国小山城(南河内郡)御取立ての時に、奉行小野木六助……御地頭地下人頭梁し、寛文九乙酉歴(※1669-1670)に郡中令し㆓奉加㆒、小庵を結び……此奉加帳に……百済国より王仁来朝して中宮村に殿作りし居住ありて、此の上ノ堂を建立有り。逝去の時石の櫃に納めて土入す。御墓山是なりと云へり。何れの記録より考へたるらん、いぶかし。 ……但し石塔は後代に立てけるや、今に当村に其塔石古き有り㆑之れ。……如何様日本に珍敷形象也。……」 -"当郷旧跡名所誌,尊光寺八世教岸,天和二年(1682年)" P.293-295,片山長三,津田史(一九五七),1957(※カナをひらがなへ置換)
1689年八幡宮本紀,貝原好古の王仁の墓
「河内國交㙒郡津田の新田に王仁の墓あり又泉州にも王仁の社あり境の東なる蓼ゲ池の邉に王仁の社あり」 -八幡宮本紀, 貝原好古,1689年 ・https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100093447/viewer/209 ・https://www.kanzaki.com/works/2016/pub/image-annotator?u=https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100270990/manifest#p215
1731年「博士王仁之墓」建立か
1791年と1895年参照
1735年河内志(五畿内志)並河誠所他
1791年河内国交野郡藤坂村旧記
五畿内志の並河誠所が王仁墓へ来て石碑が建てられたと書かれている。1895年歴史学者内藤湖南達が伝王仁墓を訪れた際も、村長から同様の話を聞いている(領主久貝氏石碑建立話)。 “王仁の古墳を訪ふ(上)”吟淵,大阪朝日新聞,1895年11月23日
“王仁の古墳を訪ふ(下)”吟淵, 大阪朝日新聞,1895年11月26日
博士王仁 : 文学始祖,P.18-19,寺島彦三郎,発行事務所、1908年 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871746/18
「一、博士王仁墓所一ノ瀬御墓谷の上に在 往古より自然石の石碑有り来り候処 享保十六年(※1731年)之頃並河五市郎様御巡見之節 博士王仁塚と相定せれ 則御上より石碑建てなされ候事 今之石碑是也 先年の石は前に絶つ」 -"河内国交野郡藤坂村旧記,寛政三辛亥歳五月(1791年),西法寺所蔵"P.36-52,藤阪の今昔物語,寺島正計,1999年7月1日
1795年津村淙庵,譚海
水戸光圀公御糺の王仁博士墓の碑が記録されている。
「河内國交野郡藤坊と云(いふ)處に大なる磐石(ばんじやく)あり。上古王仁(わに)の墓なるよし、水戸光圀卿御糺しありて、王仁博士墓と云(いふ)文字を碑に刻し、石の前に建られたり。此石深更には聲を發しけるとて、里人恐(おそれ)て夜は此あたりへかよひ侍らず、泣石(なきいし)といひならはせり。石の大さ四尺ばかりにして駁蘚を生(しやうじ)たり、千歳(せんざい)の石いと珍しき事也」 -"譚海 卷之二 河州交野郡王仁墳の事,津村正恭(淙庵),1795年" 翻刻文:Blog鬼火~日々の迷走,藪野直史,2017/4/29 https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2017/04/post-377f.html 譚海 http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0364-004002&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E8%AD%9A%E6%B5%B7%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=87
1814年耳嚢,根岸鎮衛
根岸鎮衛(1737-1815)の随筆にて「博士王仁之墓」が記録されている。
「王仁石碑の事 河州(かしう)交野郡(かたののこほり)に、おにの墓といふ事あり。水野某大阪勤仕(ごんし)の頃、右銘を石摺(いしずり)になしたりとて見せけるを、左(さ)に記す。 博士王仁之墓 と彫付(ほりつけ)ある由。年號も文もなし。仁德の頃の物にはあるまじ、其後遙(はるか)の後世に出來たるやしらず。しかれども、ちかき造立(ざうりう)とは不見(みえず。楷書にて著(しるせ)しが、見事なる筆法なり。土俗は王仁を略語して鬼の墓といふ由、をかし。」 -"耳嚢 巻之九 王仁石碑の事,根岸鎮衛" Blog鬼火~日々の迷走,藪野直史,2015/2/9 https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2015/02/post-e1f0.html
1827(文政十)年「博士王仁墳」の碑建立か
1892年と1895年の項参照
1892年河内国交野郡招堤村家村犬次郎よりの聞書
片山長三"王仁塚"で引用された「河内国交野郡招堤村家村犬次郎よりの聞書」(明治25年(1892年),津田町長尾の戸川氏所蔵)によると、 文政十丁亥年(1827年)、「王仁旧記」を所蔵していた有栖川宮侍の河内国交野郡招堤村・家村孫右衛門と有栖川宮家儒臣の山城国葛󠄀野郡太秦村・漢部公明が有栖川宮幡仁親王へ「博士王仁墳」の御染筆を願い寄附も受け碑を建てた。漢部氏は失踪し「王仁旧記」は失われた。
「建設当初この碑は今の市即ち小丘上にあったのではなく、今日境内西の入口を入ると、右側にある杉の木の位置に建てられていたのであった。」 -"王仁塚"P.73-79,片山長三,懐徳,26号,懐徳堂堂友會(大阪大学文学部内),1955
1895年内藤湖南と元内閣府書記官高橋健三(吟淵)の調査
1895年歴史学者内藤湖南達が伝王仁墓を訪れ村長から話を聞いている。五畿内志の並河誠所が王仁墓へ来て領主が建立したとのことであるが、 享保十六年(1731年)頃の領主は水戸家家臣・久貝太郎兵衛正武の実子である久貝正順である("巻第千三十六 藤原氏支流 久貝"寛政重脩諸家譜. 第6輯,國民圖書,1923 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082716/203 ) 。
「……村長に謁を求め先づ此日古墳を訪へる荒增を語出でたるに此人頗る王仁墓在勝の事に熱心にして懇ろに其來由を説きて曰へりけるは彼の長方形の石は享保の頃並川某畿内誌編纂の業を企て資料蒐集のため五畿を巡見せる折柄此地に來りて王仁の古墳を一見し其荒廢を斯くては此名勝も竟に湮滅し了らんと訴へしかば時の領主久貝彌右衛門此事を聞きて享保十六年といふに建立せしものなりという按ずるに並川某とは誠所の事なり……」 「村長の語れると能く適へり今一つ最も新しと見ゆる石は如何と問へるにこは久貝氏が石を建てしより百數年の後人々古墳の再び荒廢に就かんことを憂ひ交野郡招堤村の家村某山城太秦村の大石某發起して廣く世の義損を促し其資もて文政十年(※1827年)に建てしものなり石面の文字は 有栖川九代の宮幡仁親王の親筆にして其眞跡は今も此に在りとて取り出で示されたり是にて前の疑ひは悉く釋け王仁の眞の墳墓は果して彼の圓形の自然石なりしことも知られたり」 “王仁の古墳を訪ふ(上)”吟淵,大阪朝日新聞,1895年11月23日 “王仁の古墳を訪ふ(下)”吟淵, 大阪朝日新聞,1895年11月26日 博士王仁 : 文学始祖,P.18-19,寺島彦三郎,発行事務所、1908年 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871746/18
1900年吉田東伍「大日本地名辞書 」とアテルイの墓
吉田東伍は鬼墓をアテルイの墓とする
「津田 ……於爾墓 河内志云、王仁墓、在河内国交野郡藤坂村東北墓谷、今稱於爾墓。按ずるに此は百濟博士王仁にや、又蝦夷酋を植山に斬りたれば、是其墓にあらずや。」 -大日本地名辞書,吉田東伍,冨山房、1900年 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937057/163
1955年「王仁塚」片山長三
論文「王仁塚」で片山長三は並河誠所が和田寺で「王仁墳廟来朝記」を見て https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871746/12 1735年五畿内志(河内志)へ王仁墓について書いたとしているが、出典不明でおそらくは推理によるものと思われる。("王仁塚"P.73-79,片山長三,懐徳,26号,懐徳堂堂友會(大阪大学文学部内),1955)
又種々の記録にあるごとく、最初よりあった自然石の碑、即ち享保十六年並河五市郎が王仁墳なりと指定せられた古碑は、考古学者の否定を招く資料となるものである。即ち応神仁徳朝時代の墳上に碑石をおくということは、全くその例を見ないものであって、碑石はその後仏教渡来して幾百年の後、墓制が次第に改められた中世時代のものと見ざるを得なくなる次第である。 しかし私はこの墳墓の伝説資料の多くをしらべ、殊に私がこの墳のある津田町民であるがために、どうかしてこの墳墓が王仁博士の墳墓であるべく、考古学上よりの確証を得たく思って、今もその発見に努力しているものである。…… "王仁塚"P.73-79,片山長三,懐徳,26号,懐徳堂堂友會(大阪大学文学部内),1955
1978年社会心理学者の王仁塚荒廃への怒り
辻村明東京大学教授が王仁塚の荒廃に怒り、伝王仁墓の整備が進められる。
博士王仁の名前が、今や公園の名前になって生きているのは結構であるが、この史蹟の有様は碩学を遇する道ではない。近くには百済寺跡があり、かなりよく整備保存されているのだから、それらと一連の文化財として、プールにくる子供たちに、日本と朝鮮半島との歴史的由来を教える契機にしたらどんなにすばらしいことだろうか。忘恩の徒といわれないためにも、われわれは日本文化の淵源を尊重していかなければならない。ここにも日韓コミュニケーションにおける抜き難いギャップの一面を見る思いがした。 -辻村明“忘恩の徒になるな 荒れ果てた王仁の墓に思う 文化面も日韓ギャップ”サンケイ新聞, 1978年8月17日
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