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伊勢物語「渚の院」と七夕

更新日:2023年12月12日

『伊勢物語』"渚の院"の情景は曽我物語冒頭でも意味付けをされる、文学的世界の重要なシーンです(吉田究 . “歌枕・交野 - 詩的個性の展開する場.” 大手前女子大学論集 12 (1978): 129 – 143. http://id.nii.ac.jp/1160/00001175/ .)。


平安時代には「あまのがわ」という名称の河川であったとわかる天野川は、奈良県生駒市、大阪府四条畷市・交野市・枚方市を太平洋とは逆方向へ北上する川ですが、枚方市が七夕伝承について書く際はこの枚方市が舞台となっている伊勢物語の渚の院がよく引用されます。



しかしこの『伊勢物語』"渚の院"こそ、枚方市の天野川に七夕伝説がなかった証拠だという説が下記の様に近年唱えられています。その説は奇妙な説に思います。


なぜなら、惟喬親王(844-897)が返歌できなかったのは織女(たなばたつめ=太奈八太豆女(倭名類聚鈔 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544216/11 ))の歌だけでなく

そのすぐ後に出てくる月が山の端に隠れる歌でも返歌できていないからです。いくらなんでも惟喬親王が月が山の端に隠れるという日常的に見られる景色へ意表を突かれる事はないと思われますから、返歌できなかった原因はお酒だったのかもしれませんし、 織女の歌の場合は彦星がいるのに在原業平は困った色好みだと思われて躊躇されたのかもしれません。

交野郡にて他の地方とは違う特色ある七夕の行事が残存していたわけではありませんが、他の地方と異なる特別な習俗が残っている地方が七夕伝承の源という説は特徴的な七夕祭がある地域が多数あるのでおかしなお話ですし、習俗や祭祀は途中で衰退・勃興する事があるものなので、

五畿内志(1735年)や河内名所図会(1801年)に記録されている旧交野郡の機物神社の七夕行事が空想という確証はありませんし、

旧交野郡星田村に「牽牛」、旧倉治村の機物神社に「織女」と書き込まれた17世紀頃の『金丸又左衛門役地絵図』もあります。旧星田村は仁正寺藩の所領でしたが、貞享2年(1685年)7月に代官となった金丸又左衛門(~1708年)は仁正寺藩(滋賀県蒲生郡)市橋家の所領についても出てくる代官です(滋賀県蒲生郡, ed. 近江蒲生郡志. Vol. 4. 蒲生郡, 1922. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965733/89 :128-130.)

繰り返し文学作品で旧交野郡の天野川が七夕にちなんで詠まれるのであれば、人々の心の中では旧交野郡の天野川と七夕はずっと結びついていたことそのものを顕しているのではないでしょうか。 それこそが最も旧交野郡が七夕の地として語られる要因だと思われます。



渚の院

「……お供の者が、酒を(従者に)持たせて、野(の方)から出て来た。 この酒を飲んでしまおうといって、よい場所を求めて行くと、天の川という所についた。親王(※惟喬親王(844-897))に馬の頭(※モデルは在原業平(825-880))が、お酒をさしあげる。親王がおっしゃったことには「交野で狩りをして、天の川のほとりにだとり着いたことをお題にして、歌を詠んで杯をつぎなさい。」とおっしゃったので、あの馬の頭は、詠んで申し上げた(歌)。 〽狩り暮らし  たなばたつめに  宿やどからむ  天あまの河原かわらに  我は来にけり (一日中狩りをして(日が暮れたので)、織姫に宿を借りよう。天の河原に私は来てしまったことだから。) 親王は、歌を何度も繰り返し口ずさみなさって、返歌をなさることができない。 紀有常も、お供としてお仕えしていた。その者(=紀有常)の返歌。 〽ひととせに  ひとたび来ます  君待てば  宿かす人も  あらじとぞ思ふ ((織姫は)一年に一度いらっしゃる君(=彦星)を待っているのだから、宿を貸す人もあるまいと思う) (親王は)帰ってお屋敷にお入りになった。夜が更けるまで酒を飲み、お話をして、主人である親王は、酔って(寝床に)お入りになろうとする。(ちょうど)十一日の月も(山に)隠れようとしているので、あの馬頭が詠んだ(歌)。 〽飽かなくに  まだきも月の  隠るるか  山の端は逃げて  入れずもあらなむ ((ずっと眺めていても)飽きないのに早くも月は隠れるのだなあ。山の端が逃げて月を入れないでおいてほしい。) 親王に代わり申し上げて、紀有常(が詠んだ歌)、 〽おしなべて  峰みねも平らに  なりななむ  山の端はなくは  月も入らじを (すべて一様に、峰が平らになってほしい。山の端がなければ、月も入らないだろうよ。)」 フロンティア古典教室. “伊勢物語『渚の院』解説・品詞分解(2).” フロンティア古典教室, May 5, 2018. https://frkoten.jp/2018/05/02/post-2233/ .(現代語訳と和歌の部分のみ引用)

伊勢物語の渚の院は七夕伝説が無い証拠説

さらにいえば、『伊勢物語』はむしろ地上を流れる天野川に七夕伝説が伝わってなかったことを明示している。地上の天野川にちなんだ歌を詠めと惟喬親王にいわれた在原業平は、七夕の歌を詠んだ。それを聴いた惟喬親王は、意表を突かれて返歌を返せなかった。つまり、当時から、地上の天野川と七夕伝説には関係性がなかったのである。 (馬部隆弘. 椿井文書. 中公新書, 2020;222.)
酒宴を開こうと、惟喬親王一行は天野川の畔にたどりついた。ここで惟喬親王が天の川をテーマに歌を詠むよう指示すると、在原業平は眼前の天野川を天上の天の川になぞらえて歌を詠んだ。これをいたく気に入った惟喬親王は、返歌に困るほどであった。つまり、業平は惟喬親王の及びもつかぬ機転を利かせて歌を詠んだのである。これは地上の天野川が天上の天の川とは全く結びつかなかったことを示している。もし地上の天野川に七夕伝説があれば、業平の歌は非常に非凡で、短絡的な歌である。『伊勢物語』の作者が業平をそのような凡才として描いていないことは周知の事実である。 その後も、紀行文などに天野川はしばしば散見する。『伊勢物語』と重ね合わせながら叙述するのは紀行文の常套手段であり、天野川にさしかかれば『伊勢物語』の世界を踏まえながら七夕を歌枕にした一首が詠まれることが多い。したがって、紀行文や和歌では七夕と天野川が常にセットで登場するが、それをもって地元に七夕伝説が存在したとすることはできない。 地元で七夕が意識され始めるのは、近世の在村知識人が『伊勢物語』を認識しはじめた頃である。本文で述べたように、七夕に基づいた特別な習俗が地元に一切の残っていないことが何よりの証左である。 (馬部隆弘. 由緒・偽文書と地域社会. 勉誠出版, 2019;272.)


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