いわゆるアテルイの首塚がある枚方市牧野公園とその周辺は京都・西寺廃寺同笵瓦が出土した瓦窯跡ですが、日本後紀によるとアテルイが亡くなった頃の西寺の造西寺長官は 坂上田村麻呂です。2007年「伝阿弖流為母禮之塚」が建立されましたが、頭の「伝」は伝承の伝で、史実というわけではありません。
枚方市議会議事録で1973年頃からアテルイの首塚・胴塚と言われ始めたとわかる旧坂村の首塚と旧宇山村の古塚または胴塚の元々の伝承は、河北新報1979年3月25日報道によると
胴塚;蝦夷の統領が処刑された場所
首塚;”戦いに負けた大物武将の首塚がある”
でした。1972年『枚方市史』第2巻にて歴史学者達によるアテルイが宇山で斬られたという記載へ「要検証」と反論した事をきっかけに新興住宅地の市民にも歴史学者達がそのように言っていると知られたからか、アテルイの墓を探しに枚方市へ来阪していた東北地方・河北新報と地元住民の出会いからか、敗戦武将の首塚の「武将」がアテルイへと認識が変容したのではないか?と述べた記事の続きです。
造西寺長官 坂上田村麻呂
『日本後紀』によると、阿弖利為を平安京へ連れて帰り延命嘆願した坂上田村麻呂はアテルイが亡くなった後の延暦23(804)年8月7日己酉時点の記録では造西寺長官です。
〇己酉、遣征夷大将軍従三位行近衛中将兼造西寺長官陸奥出羽按察使陸奥守勲二等坂上大宿禰田村麻呂 (※日本後紀巻第十二 桓武天皇 延暦廿三年八月) (佐伯有義. “日本後紀巻第十二 桓武天皇 延暦廿三年八月.” 六国史. Vol. 5. 東京: 朝日新聞社, (1940): 49. https://dl.ndl.go.jp/pid/1920623/1/44. ) (藤原冬嗣, and 己一 保. 日本後紀. 1801年. Vol. 12. 山城屋佐兵衛, 840. https://doi.org/10.20730/100260516 .76コマ. https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100260516/viewer/76 .)
『公卿補任』延暦23(804)年5月と延暦24(805)年6月23日( https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991099/47 , https://dl.ndl.go.jp/pid/3431666/1/61 )によるとこれは造西大寺長官の誤記であった可能性もありますが、もし誤記であっても後世の人が坂上田村麻呂を造西寺長官と認識する要因はあった事になります 。
牧野阪瓦窯出土の西寺の瓦
坂上田村麻呂が造西寺長官に任命された京都市の西寺の同范の八葉複弁蓮華文軒丸瓦が"アテルイの首塚"がある牧野公園内や片埜神社周辺や清岸寺の牧野阪瓦窯遺跡から出土しています。
明治29年(1896年)淀川決壊修繕の採土で"アテルイの首塚"がある牧野公園と隣接している清岸寺から、古刀と多くの「西寺」と書いた瓦が出土したと記録されています(井上正雄. 大阪府全志. Vol. 4. 大阪府全志発行所, 1922. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/704 :1344-1345.)(市史編纂委員会, ed. 枚方市史. Vol. 別. 枚方市, 1995. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2987976/80 :124)。
いわゆる"アテルイの首塚"には「古くから”戦いに負けた大物武将の首塚がある”との伝承があった」と河北新報は報じましたが、それ以前の時間にもアテルイと非常に深い関係がある坂上田村麻呂とアテルイの首塚のある場所との間のゆかりが、史実の次元で存在していた事がわかります。
これがその4年後の1900年に初版される吉田東伍『大日本地名辞書』の宇山でアテルイが斬られたという記述の原因になったのか、それともずっとそれ以前から
日本後紀のアテルイが河内国〇山で斬られたという記載
東北派兵時の坂上田村麻呂の上官・百済王俊哲の本貫地が河内国交野郡
造西寺長官坂上田村麻呂という日本後紀の記載
西寺の瓦を焼いていた牧野公園エリアの瓦窯跡の実在
があいまって伝承が発生していたのかはわかりませんが、"首塚"の近くの"胴塚"=古墳は江戸時代祭祀していたと出土物から判断できる点もあわせて、伝承が吉田東伍以前からあった要因側へ加算することはできそうです。
”戦いに負けた大物武将の首塚がある”という伝承の主の名前がいつのまにか忘れられてしまい、1952年造成直前の採土工事でさらに見つけにくいものになりまた再発見されたのだとしたら?昔々はアテルイはまったく無名で誰も知りませんでした。もし塚の前で名前を聞いても、メモでもしないと忘れてしまっていたことでしょう。
1948年頃の航空写真( https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=168076 )を観ると、首塚は片埜神社旧境内の森の中(現・牧野公園内)に位置しています。
九頭神廃寺……前身となる寺院は 7 世紀中頃に遡り、7世紀後半から 8 世紀前半にかけて大規模に整備されました。現在までに 300 次を越える発掘調査が行われ、大量の瓦が出土しています。その中には「西寺」、「西浄」、「西」と刻印された瓦もあります。……九頭神廃寺と同じ「西」の字の刻印を持つ瓦が多く出土する古代寺院が、遠く離れた京都にあります。平安京にあった西寺です。……枚方市内には、このほかにも「西」の文字の刻印を持つ瓦が出土する遺跡があります。牧野阪瓦窯跡です。九頭神廃寺から北西約600 mの牧野公園付近にあたります。公園の造成工事の際に「西」や「圡」といった西寺と同じ刻印の瓦が見つかっています (枚方市観光にぎわい部文化財課, ed. “ちょっと気になる文化財!.” ひらかた文化財だよりKAWARABAN, March 31, 2022. https://www.city.hirakata.osaka.jp/cmsfiles/contents/0000024/24529/dayori131.pdf .)
交野焼(行基焼) 片埜神社の附近で荒布目の瓦の無数に埋没している (枚方市史(旧版,1951年)P.245)
この「奈良時代の瓦と全く同質といつていい器地である」といふ観察は、正倉院三彩の作られた窯址の調査に大きな暗示を與へるもので、果せるかな『造佛所作物帳』なる天平六年の正倉院文書の中に、 瓷杯料土 二千五百片 自肩野運車五兩 といふ記録があり、肩野(一般に交野と書き、河内國の郡の一つに交野郡といふのがあつた)、つまり今の大阪府北河内郡枚方町附近の土を造佛所へ瓷杯の料土として車五兩で二千五百片運んだといふのである。この枚方町の坂といふ所には、昨今われわれが牧野瓦窯址と稱してゐる奈良時代から平安前期にかけての瓦を焼いた窯跡があつた。そこで恐らく、この牧野瓦窯の瓦工が瓦とした同地の土を、造佛所で作成することになつた瓷杯の料土としたのではないかと思ふ。 (藤野勝彌. “正倉院三彩の研究(上).” Edited by 藝林會. 藝林 2, no. 4 (1951): 52–53. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11201588/28 .)
18「西寺」のもじ瓦と交野の坂の瓦窯阯の発見 付、碧瓦の疑い 1962年12月、坂の瓦窯阯を捜してみたが、夙に瓦窯阯は破壊され……この瓦窯阯は付近の製瓦工場の主人が、瓦をやく土をとっていて発見され、それを南禅寺天球院の住職 久下宗亮師がきかれ、一方、当時(1935年頃※昭和10年)門真へかよっておられた木村さんもきかれ、私は木村さんに案内して戴いて第(※1)6図の写真をとったのである。 ここからでる鐙瓦の連珠文の周縁の右に、素朴な、雅味のある字で「西」(註1)、左に「寺」とあるから、西寺の瓦をやいた窯阯で、現に820年頃にたった金堂阯から、これと同じ木型で造った瓦がでている。……坂の瓦窯の「西寺」瓦は、ここからでる瓦の中で最も古式で、東大寺の瓦に近いから、様式的には8世紀後半の製瓦となろう。 (たなかしげひさ. “にし寺興亡の研究(五).” 史迹と美術, no. 368 (1966): 282–293. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/6067254/4.)
吉田東伍は無から有を創作する歴史地理学者?
もし蝦夷が斬られたという地域伝承が吉田東伍『大日本地名辞書』(1900)から派生したものだと仮定しても、吉田がなぜそう書いたかわかりません。吉田東伍が無から有をつくったとも思えませんし、吉田東伍が椿井文書のような偽書に簡単に騙されるとも思えません。
現に、吉田東伍が京都府内の椿井文書について怪しいと判断する鑑定眼が記録されています。これは山城国綴喜郡井堤郷旧地全図のことではないでしょうか?( https://www.1101.com/n/s/tsubai_babe/2021-06-02_01.html )
學士會事務所に開き、会報第二号に載する所の山城国綴喜郡井出村の古墳……当日出席の委員は三宅米吉、中田憲信、坪井正五郎、吉田東伍、木村正辭の五氏にして、……去明治十四年七月十四日、井出村宮本三四郎の家にて今井良久通称佳平の古絵図を一見せるに、甚詳細に過ぎ、却て疑はしくさへ思はれしが、元来此図は椿井権之亟の制せる由にて安積親王の和束の墓も之に據りて決定せられたる趣なれば……吉田氏云はく、その図は疑ふべし、…… (帝国古蹟取調会, ed. “第二回調査会議記事.” 帝国古蹟取調会会報, no. 3 (1902): 64–66. https://dl.ndl.go.jp/pid/1889483/1/39 .)
この会議の中に椿井文書作者の椿井氏掲載の椿井家系図を所収した『諸系譜』を書いた後村上天皇末裔と名乗られていた中田憲信がいるのが大変興味深いです。『諸系譜』には架空の人物と『椿井文書』(2020)で書かれていた旧河内国交野郡津田村の楠木正成公の孫の正信(津田周防守)とみられる人物も書かれていて、少し疑った目で見ています。
創作とよぶ歴史学者やマスメディアへ
1980年頃、夢に見た老人が気になって「昔この辺で何かありましたか」と【歴史】について質問してきた市民の女性へ市史編纂室の田宮久史氏が「エゾの酋長が斬られた話がありますから、そんな関係でしょうか」と回答した事から女性が弔いをはじめてアテルイの首塚が発生したという田宮氏のメモを引用した2006年の論文がありますが、
歴史について質問した女性市民が歴史担当者から聴いた回答を歴史だと信じるのは普通で、また、過去に生きていた人物を弔う信仰心は憲法で保障された信教の自由です。
近年歴史学側から"アテルイの首塚"は「創作」であると批判されています。創作とは「新しいものをつくり出すこと……つくりごと。うそ。」です(デジタル大辞泉(小学館), ed. “創作(そうさく) の意味・使い方.” goo辞書, n.d. https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%89%B5%E4%BD%9C/#jn-128557.)。
2006年の論文(馬部隆弘. “蝦夷の首長アテルイと枚方市-官民一体となった史蹟の捏造-.” 史敏, no. 3 (2006): 73.)(アテルイを顕彰する会, ed. “情報201 論文「蝦夷の首長アテルイと枚方市」.” アテルイを顕彰する会, January 5, 2013. http://aterui8.jp/history/info/aterui_info212.html .)で引用された市史編纂室担当者の1990年5月25日付のメモランダムはまるで江戸時代のくずし字のような判読困難さがある書体だそうです。
そのメモランダムが本物で(私には確認できません)史料的に採用できる真実性があると仮定すれば(馬部氏が就任する前既に田宮氏は職場を去っておられたようで、市史編纂室が枚方市立中央図書館へ移転した一年後の2006年に論文で公開されたメモランダムなので私には判断できません)、
創作、つまり女性が意図的に創りだしたものとするのは随分おかしな評価です。田宮氏は冗談のつもりでそう述べたようですが、女性は夢で見た老人が気になって「昔この辺で何かありましたか」と歴史について歴史を担当する公務員へ質問し、その公務員が蝦夷を斬った話を伝えそれを信じたわけで、女性は素直なだけです。
田宮氏の内面は私にはわからないので、彼に隠れた動機があったため女性をアテルイの方向へと教唆したとも言えません。ただ、結果的・外形的にはもし悪意が無いにしても歴史担当者として女性を"斬られた蝦夷"方向へと誘導した形にはなっていて、河北新報は田宮氏を介してその女性を知ったとメモランダムには書かれているわけですから、その結果への責任を歴史学側が問うのであれば、今の論調の「一般市民の女性」へではなく、歴史担当者の田宮氏に求めるべきではないでしょうか。
創作が「つくりごと」や「うそ」を意味しているのであれば、女性は「昔この辺で何かありましたか」と歴史について歴史を担当する公務員へ質問し、歴史担当の公務員から蝦夷が斬られたと教えられて信じただけで、つくりごとやうそをしたわけでもありません。
田宮氏が首塚という結果を「つくりごと」しようと目指したともいえません。実は内心に秘めた動機がもしあったとしても、それを第三者が証明するにはハードルは高いと思います。
歴史学側は一体誰が主体的になって創作したと述べているのでしょう?もし女性なら、枚方市民への不当ないいがかりに該当しないでしょうか?
しかし疑問点があります。市役所代表ではなく市史編纂室へ電話してきたと言う事は、市民の女性は『枚方市史』第2巻(1972)のアテルイ宇山で斬にまつわる記載について、知っているはずだと思うのです。
時系列も、1993年の20年前にアテルイの塚といわれはじめたと市議会で田宮氏が述べていたということは枚方市史第2巻出版翌年の1973年頃からアテルイの塚といわれはじめたとなるはずなのに、女性の電話エピソードは1990年から10年前の1980年前後のお話しと書いてあるのです。
女性が祭祀をはじめてから木々が生茂ったそうですが、樹木が繁るには少なくとも5~10年はかかるはずです。
MBS放送データにみられる歴史の改ざん
2020年MBSの斉加尚代ディレクターはこの問題について放映しましたが、その放送データでは1990年の田宮氏のメモランダムに記録された内容と大きく内容が改竄され、女性が全て悪いかのように書かれています。ひどい話です。
きっかけは1本の電話だった。枕元にアテルイが立ったという女性がお祠りするよう繰り返し電話をかけてきたという。枚方市に断られた女性は、牧野公園の木の根元に勝手に祠り始め、誰かが石を置いた。……【コーナー】 (史実と神話~戦後75年目の教科書と歴史~放送時間: 2020/08/31 00:55:22 ~ 2020/08/31 01:06:30) (株式会社ワイヤーアクション, ed. “アテルイと 枚方市.” テレビ番組放送データ情報, August 31, 2020.)
(大阪大谷大学. “【歴史文化学科】馬部隆弘文学部准教授が毎日放送「映像’20 史実と神話~戦後75年目の教科書と歴史」に出演します! 8/30(日),” August 27, 2020. https://www.osaka-ohtani.ac.jp/department/literature/news/202008_7396.html.)(MBS. “史実と神話~戦後75年目の教科書と歴史,” August 30, 2020. https://www.mbs.jp/eizou/backno/20083000.shtml.)
伝承は一切ない?
2006年論文では伝承は一切無いと書かれていますが、2020年大学紀要では市民から実は蝦夷が殺害されたという「伝承」を聴いていたと書かれています。 それを吉田東伍『大日本地名辞書』(1900)ゆらいと考え、伝承ではなく吉田の学説から派生したものだと考えて「地元では一切その伝承がなく」と書いたといわれますが、 吉田東伍の記載が本当に学説なのか採話した地域伝承等なのかについて、また"伝承"は吉田の記載から派生したものなのかについて実証・証明する義務はまだ果たされていないように思います。
“明治以降、アテルイ処刑地を宇山とする説がある一方で、地元では一切その伝承がなく……” (馬部隆弘. “蝦夷の首長アテルイと枚方市-官民一体となった史蹟の捏造-.” 史敏, no. 3 (2006): 73.)
“アテルイが当地近くで殺害されたという言説は、明治33年(1900)に刊行された吉田東伍氏の著書に始まり、昭和47年(1972)に刊行された『枚方市史』などにも引用されている。これらは、『日本紀略』の解釈から提示された仮説・学説で、当然ながら伝承ではない。 一方で、枚方市には蝦夷が殺害されたという「伝承」があると熱心に主張する方々もたしかに何人もいた。しかし、蝦夷が殺害されたという「伝承」は、どう聞いても先祖代々伝わってきた類のものではなく、明らかに上記の学説が発端となったものばかりであった。このようなものは到底伝承として扱えなかった。また、この程度のことを説明する必要もないというのが当時の筆者の判断である。”馬部隆弘. “アテルイの「首塚」と牧野阪古墳.” 志學臺考古, no. 20 (2020): 1–6. http://id.nii.ac.jp/1200/00000357/ .
アテルイの江戸時代の祭祀説
西田敏秀氏、瀬川芳則関西外国語大学教授
「これは墳丘の上に小さな祠をおき屋根に瓦を葺いていたこと、そして人びとがまつりごとを行っていたことを示している。江戸時代の人が、ここを阿弖流為の墓だと考えていたらしい」 (瀬川芳則. “アテルイ伝承をもつ枚方の胴塚.” 地域文化誌 まんだ, no. 38 (1989) https://id.ndl.go.jp/bib/000000030336 .)
「発掘調査を実施した結果、現状は旧状を残しているものではなく、江戸時代に手を入れられていることが判明した……そののち、江戸時代の人々は、この陥没部分で故意あるいは、偶然に何らかの遺物などを目にしたものと考えられる。おそらく、その時、何者かの墓と認識し、陥没部分を埋め戻し、全体にも若干の盛り土を施し、現状の土盛りに至ったものと考えられる。また、表土層とその下部の攪乱層(近世盛土)内には、多量の土師質小皿(多くは灯明皿として使用した痕跡を残す。)とともに、小型の近世瓦が出土しているため。江戸時代に現状の土盛りとなした時点より以降に、土盛りの上部に、簡単な祠状のものを建て、何らかの祭祀を行っていた可能性が高い。」 西田敏秀. “宇山遺跡(第4次調査)・宇山1号墳.” Edited by 財団法人枚方市文化財研究調査会. 枚方市文化財年報, no. Ⅹ (1991): 20–27.
アテルイ終焉
『日本紀略』ではアテルイ終焉の地は河内国の□山と記されていますが、杴山、椙山、植山、榲山、杜山と色々な漢字の版があります。
「丁酉斬夷大墓公阿弖利為 盤具公母禮等……斬於河内國□山」 日本紀略, n.d. https://www.digital.archives.go.jp/img/3932334 ;98コマ目.
1900年『大日本地名辞書』
「宇山(ウヤマ)……延暦二十一年坂上田村麿蝦夷二酋を河内植山に斬ると云ふは此なるべし。大日本史云、蝦夷酋大墓公阿弖利為盤具公母禮率部落五百餘人降、……乃斬於河内植山。〇宇山の東一里菅原村大字藤坂に鬼(オニ)墓あり夷酋の墳歟。…… 津田(ツタ)……於爾墓(オニツカ)〇河内志云、王仁墓、在河内國交野郡藤坂村東北墓谷、今稱於爾墓。按ずるに此は百濟博士王仁にや、又蝦夷酋を植山に斬りたれば、是其墓にあらずや。……王仁墓、今菅原村大字長尾の東南五町許、近年修治を加へ碑を建つ」 (吉田東伍. 大日本地名辞書. 冨山房, 1900. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937057/163 .)
1972年枚方市史第2巻
「宇山=植山説が成立するためには、(a)河内国杜山や、(b)河内国椙山よりも、(c)河内国植山の方が正しいことを論証する必要がある」 (片山長三, 吉田清治, and 阪本平一郎, eds. 枚方市史. Vol. 2. 枚方市, 1972. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3009452/147 ;247.)
1970年代初頭頃の伝承
1993年枚方市教育委員会社会教育部長田宮久史氏の枚方市議会での発言から、少なくとも1973年頃には首塚と胴塚はアテルイのものだという伝承が存在していたとわかります。
「……まだ、ほんの20年ほど前から一部の方が胴塚とか、首塚とか、宇山地区にはそういう多分古墳だろうと思うんですが。実際胴塚と呼ばれていますところは発掘調査の結果、古墳だったということがわかりましたが、首塚、胴塚というようなことで伝わってきておりました。しかし阿弖流為のと言い出したのは、ほんの20年ほどのことです……(※枚方市教育委員会社会教育部長田宮久史氏)」 『平成五年第三回定例会 枚方市議会会議録』P436-456. (馬部隆弘. 由緒・偽文書と地域社会. 東京: 勉誠出版, 2019;294.)
1979年河北新報の報道
大阪府枚方市の蝦夷の統領伝承が河北新報によってアテルイと関連付けて報道されました。 古くから「蝦夷の統領が処刑された場所」と伝えられていた古塚とは報道された番地から宇山東町の宇山二号墳の事と思われます。
「現在の「枚方市宇山(うやま)町」が有力とされているものの、同編さん室ではなお“確証がない”と懐疑的な立場をとっている。ところが数年前、同神社の氏子……が、元の神社の神域で現在は公園になっている神社のわきにある首塚を発見した。古くから「ヘビ塚」「鬼塚」などと呼ばれ、付近住民の間には“さわるとたたりがある”などの言い伝えが残されていたという。「もしや斬刑にされた蝦夷の統領を葬ったものでは!」との声が付近住民から高まり、市民有志が約5メートル四方、高さ2メートルの土盛り塚に柵(さく)を巡らし保存するようになっていた……この塚の中央には長い間の風雪でかなりすり減った高さ五十センチぐらいの自然石が置いてあり、……岡田宮司によると三年ほど前には二つの石碑があった。同宮司はその後の調査で (1)杜山に関連するとされる「植山」「上山」は現在の「宇山」で、ここ以外にない (2)神社の所在地は地理的に河内国でも京都に一番近く、地元には古くから”戦いに負けた大物武将の首塚がある”との伝承があった (3)現場は、小高い丘のように土が盛ってあり“たたりがある”などの言い伝えがあったためか、人の手が入った様子は全くない…… たまたま最近、同神社から北東に1キロほど離れた同市宇山町の竹やぶでも高さ3メートル、周囲5メートルぐらいの古塚が発見され、朽ちはてた桜の古木とともに、古くから「蝦夷の統領が処刑された場所」と伝えられていることがわかった。 この場所は、同町二九四と二九五(※宇山東町295の宇山二号墳か?)の境にあるが、土地の所有者は昔から「自分の土地ではない」と忌みきらっていたという。こんなことから、見方によっては「処刑地」と「埋葬地」が合致することになり、貴重な遺跡に間違いないと地元では話題を呼んでいる。…… 梅原猛京都市立芸術大学長の話……ここが二人の蝦夷(えぞ)の首領の処刑の地と結び付くかどうかは、確証がない限りなんとも言えないが、できればもっと地元の古老の証言が欲しい。」 “蝦夷の統領ここに眠る? 阿弖流為処刑地と埋葬場所見つかる 地元の人々が保存 大阪枚方 古くから首塚の伝承”河北新報社,1979年3月25日,18面
夢見の女性説
枚方市教育委員会社会教育部長で市史編纂室担当者・田宮久史氏のメモ
「一九九〇、五、二五 アテルイの墓についての考え方…… 三、アテルイの墓とされた経過 (1)一〇年ほど前、牧野地区の女性が市史編さん室に時々電話してきた。曰く、夢に時々長い白髪で白いあご髭の人が地中から半身を乗り出して何かを訴える。どんな人で何を言っているのかわからないが、昔この辺で何かありましたか。 (2)田宮ほとんど冗談として対応。昔、エゾの酋長が斬られた話がありますから、そんな関係でしょうか。…… (3)……きちんとお祠りしてあげなさい。 (4)田宮、貴女の夢や提案は市としてはどうしようもありません。 (5)……女性は……独自に柵を立て、網をはり、何やら曰くあり気に飾りたてた。市はこの段階では一市民の酔狂と放置し、また他の市民もこの女性に同調する人はなかった。 (6)ところが、時の経過と共に木は繁茂し、柵は強化されるにつれて、一帯は妙に存在感をもち出し、一種聖域の雰囲気をただよわせるようになった。 四、東北人の運動 (1)……アテルイは東北人の英雄とされ……終焉の地探索が始まったのである。 (2)北上(河北)新報大阪支社の記者は河内で斬られたとすることから本市を訪ね、田宮から女性の存在を知り、片埜神社宮司を取材して、アテルイの墓を発見したとばかりに大きく報道した」 (馬部隆弘. 由緒・偽文書と地域社会. 東京: 勉誠出版, 2019;285-288.)
Comments