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アテルイの首塚・胴塚伝承は江戸時代からあった?

更新日:2月24日

枚方市牧野公園の伝阿弖流為母礼之碑は史蹟の捏造という歴史学者の批判があります。

(この記事には続きがあります→アテルイの首塚は胴塚より先?)

地元の伝承問題

1993年枚方市教育委員会社会教育部長田宮久史氏の枚方市議会での発言から、 1973年頃以前から首塚や胴塚の伝承が存在し、 1973年頃からはそれらがアテルイ関連の伝承と認識されていったとわかります。

「……まだ、ほんの20年ほど前から一部の方が胴塚とか、首塚とか、宇山地区にはそういう多分古墳だろうと思うんですが。実際胴塚と呼ばれていますところは発掘調査の結果、古墳だったということがわかりましたが、首塚、胴塚というようなことで伝わってきておりました。しかし阿弖流為のと言い出したのは、ほんの20年ほどのことです……(※枚方市教育委員会社会教育部長田宮久史氏) 『平成五年第三回定例会 枚方市議会会議録』P436-456. (馬部隆弘. 由緒・偽文書と地域社会. 東京: 勉誠出版, 2019;294.)

歴史学者達は少なくとも1900年からアテルイ処刑地は枚方市旧宇山村説をたびたび流布していますが、歴史学者達の記述が先か伝承が先かは不明です。もし歴史学者が先なら、結果責任も歴史学者に有ることになります。

1979年河北新報の報道や現地での聞き取り調査から、かつて旧坂村片埜神社旧境内の森の中にあった所謂アテルイの首塚(牧野公園内)には「戦いに負けた大物武将の首塚」伝承があった事、

旧宇山村の古墳だった古塚(おそらく宇山二号墳)には「蝦夷の統領が処刑された場所」伝承があった事は確認できますが、地元では「アテルイ」と伝承されてきたわけではありません。

1979年河北新報報道によると、旧宇山村側の(胴)塚の伝承がタブーを突破して旧坂村側へ伝播し、“(胴)塚の蝦夷の統領とはアテルイの事で首塚も彼では?”と推定されたようです。


(追記)大阪府枚方市で勤務していた歴史学者は現地住民から胴塚の伝承を聴いていたようですが、それは1900年『大日本地名辞書』由来で伝承ではないと判断してその存在を抹消し論文に書かなかったようです。しかし胴塚の伝承が『大日本地名辞書』由来か否かは証明されていませんし、1979年3月25日河北新報の報道でもこの伝承は記載されています。

“明治以降、アテルイ処刑地を宇山とする説がある一方で、地元では一切その伝承がなく……” 馬部隆弘. “蝦夷の首長アテルイと枚方市-官民一体となった史蹟の捏造-.” 史敏, no. 3 (2006): 73.
“アテルイが当地近くで殺害されたという言説は、明治33年(1900)に刊行された吉田東伍氏の著書に始まり、昭和47年(1972)に刊行された『枚方市史』などにも引用されている。これらは、『日本紀略』の解釈から提示された仮説・学説で、当然ながら伝承ではない。 一方で、枚方市には蝦夷が殺害されたという「伝承」があると熱心に主張する方々もたしかに何人もいた。しかし、蝦夷が殺害されたという「伝承」は、どう聞いても先祖代々伝わってきた類のものではなく、明らかに上記の学説が発端となったものばかりであった。このようなものは到底伝承として扱えなかった。また、この程度のことを説明する必要もないというのが当時の筆者の判断である。” 馬部隆弘. “アテルイの「首塚」と牧野阪古墳.” 志學臺考古, no. 20 (2020): 1–6. http://id.nii.ac.jp/1200/00000357/ .

(追記ここまで,2022-10-04)


アテルイの首塚の写真問題

1948年頃の航空写真( https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=168076 )によると、首塚は片埜神社旧境内の森の中(現・牧野公園内)に位置しているため、過去にどのような形状であったのか確認できません。(地図では樹木または墳墓の印があるようにも見えます)


1952年造成直前のアテルイの「首塚」の写真として表土が露出した荒れ地の写真を『由緒・偽文書と地域社会』馬部隆弘,勉誠出版(2019)の301頁にて掲載していますが、かつて鎮守の森であった事を隠してしまう効果を演出している点は問題があると思われます。

アテルイの江戸時代の祭祀説

瀬川芳則関西外国語大学教授は1988年胴塚・宇山一号墳( https://www.city.hirakata.osaka.jp/cmsfiles/contents/0000000/394/6049.pdf )発掘調査時に江戸時代の祭祀跡(多量の土師質小皿と小型の近世瓦)が出土した事から、江戸時代の村人や文人達がアテルイとして祭祀していた可能性があると地元郷土史誌「まんだ,38号」等に記載していますが、実証されたわけではありません。 横穴式木室と組合式木棺直葬墓が並列していた極めて稀な宇山一号墳には江戸時代一度掘り起こした痕跡があり、盛り土から人骨が出土したのを見て江戸時代の人達がアテルイ関連の墳と考えた可能性があるとのことです。

「これは墳丘の上に小さな祠をおき屋根に瓦を葺いていたこと、そして人びとがまつりごとを行っていたことを示している。江戸時代の人が、ここを阿弖流為の墓だと考えていたらしい」 (瀬川芳則. “アテルイ伝承をもつ枚方の胴塚.” 地域文化誌 まんだ, no. 38 (1989) https://id.ndl.go.jp/bib/000000030336 .)
「これでこの墳丘状のマウントが、江戸時代に積み上げた土盛りであることが判った。……墳丘状の盛り土を取り除くと、人骨とひと目で判る骨片や鉄製の鏃・ヤリガンナ・鍔(つば)が付いた直刀(ちょくとう)・馬の轡(くつわ)などが多くの須恵器と共に見つかりはじめた。……そのころの当地には三浦蘭阪岡田本房・小野逸子など学者・文人が少なくない。こうした人びとの中から、いつの日にか、阿弖流為の墓などという意見がでたものであるかも知れない」 (瀬川芳則. イモと蛸とコメの文化-稲作と民俗の考古-. 改訂増補版. 松籟社, 1991; 225-228.)
「発掘調査を実施した結果、現状は旧状を残しているものではなく、江戸時代に手を入れられていることが判明した……そののち、江戸時代の人々は、この陥没部分で故意あるいは、偶然に何らかの遺物などを目にしたものと考えられる。おそらく、その時、何者かの墓と認識し、陥没部分を埋め戻し、全体にも若干の盛り土を施し、現状の土盛りに至ったものと考えられる。また、表土層とその下部の攪乱層(近世盛土)内には、多量の土師質小皿(多くは灯明皿として使用した痕跡を残す。)とともに、小型の近世瓦が出土しているため。江戸時代に現状の土盛りとなした時点より以降に、土盛りの上部に、簡単な祠状のものを建て、何らかの祭祀を行っていた可能性が高い。」 西田敏秀. “宇山遺跡(第4次調査)・宇山1号墳.” Edited by 財団法人枚方市文化財研究調査会. 枚方市文化財年報, no. Ⅹ (1991): 20–27.

これら先行研究や新聞報道について論文や書籍では書かれていない点は問題だと思います。

胴塚の蝦夷の統領処刑伝承について市民から聞き取りをしていたのに、それは1900年吉田東伍の『大日本地名辞書』の「学説」由来で伝承ではないと即断し、伝承の存在を抹消した点も、吉田東伍が先か地域伝承が先かはまださだかではありませんから、問題だと思います。吉田東伍がなんの根拠も無く突然そう書くとも思えません。

(馬部隆弘. “蝦夷の首長アテルイと枚方市.” 史敏, no. 3 (2006): 72–90. https://id.ndl.go.jp/bib/000007367005 .)(馬部隆弘. 椿井文書. 中公新書, 2020.)


アテルイと蝦夷の統領の胴塚伝承

『日本紀略』ではアテルイ終焉の地は河内国の□山と記されていますが、杴山、椙山、植山、榲山、杜山と色々な漢字の版があります。

「丁酉斬夷大墓公阿弖利為 盤具公母禮等……斬於河内國□山」 日本紀略, n.d. https://www.digital.archives.go.jp/img/3932334 ;98コマ目.

1900年『大日本地名辞書』

1900年(明治33年)歴史学者・吉田東伍の『大日本地名辞書』が枚方市のアテルイ首塚・胴塚伝承の大元であり(馬部隆弘. “蝦夷の首長アテルイと枚方市.” 史敏, no. 3 (2006): 72–90. https://id.ndl.go.jp/bib/000007367005 .)、枚方市民から聴いた蝦夷が斬られた伝承は『大日本地名辞書』由来と考え、地元には一切伝承は無いと記したという見解がありますが、

(馬部隆弘. “アテルイの「首塚」と牧野阪古墳.” 志學臺考古, no. 20 (2020): 1–6. http://id.nii.ac.jp/1200/00000357/ .) 『大日本地名辞書』由来の伝承だと実証されたわけではありません。

もし地元の伝承が『大日本地名辞書』由来であれば、アテルイの埋葬地は首塚・胴塚ではなく吉田東伍が述べた通り枚方市藤阪の鬼墓(現・伝王仁墓)となるはずで矛盾点があります。


吉田東伍がなんの根拠もなく思い付きでアテルイは宇山で斬られ藤阪で埋葬されたと書くとも考えにくいと思います。


実際の旧坂村首塚と旧宇山村胴塚の伝承は上記で記した様に元々はアテルイではなく「敗戦武将(首塚)」と「蝦夷の統領(胴塚)」の伝承でありこの点も矛盾です。


「宇山(ウヤマ)……延暦二十一年坂上田村麿蝦夷二酋を河内植山に斬ると云ふは此なるべし。大日本史云、蝦夷酋大墓公阿弖利為盤具公母禮率部落五百餘人降、……乃斬於河内植山。〇宇山の東一里菅原村大字藤坂に鬼(オニ)墓あり夷酋の墳歟。…… 津田(ツタ)……於爾墓(オニツカ)〇河内志云、王仁墓、在河内國交野郡藤坂村東北墓谷、今稱於爾墓。按ずるに此は百濟博士王仁にや、又蝦夷酋を植山に斬りたれば、是其墓にあらずや。……王仁墓、今菅原村大字長尾の東南五町許、近年修治を加へ碑を建つ」 (吉田東伍. 大日本地名辞書. 冨山房, 1900. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937057/163 .)

しかし『大日本史』にてアテルイ終焉の地の地名は、どうも書かれていないようです。

(徳川光圀, and 源光圀. 大日本史. Vol. 第9,10巻21−23 本紀. 徳川総子, 1907. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/769928/42 .)


河内国植山=上山=宇山説

吉田東伍はなぜ宇山に比定したのかその理由を掲載していません。 地元や東北地方等に伝わる河内国交野郡宇山村の伝承を採話した可能性もあれば、「河内国植山」という『日本紀略』の記述から1615年まで上山村だった宇山村をとった可能性もあります。

しかし、旧河内国交野郡だけでも読みの「うえやま」へ該当するのは 「上ん山」( http://murata35.chicappa.jp/hosinomati/katanokodo/yamanekaido.htm )(本尊掛松( https://www.dainenbutsuji.com/guide/history/ )や上の山遺跡(財団法人大阪府文化財センター. “上の山遺跡Ⅳ.” 財団法人大阪府文化財センター調査報告書, no. 197 (2009). https://doi.org/10.24484/sitereports.65581 .)がある)や 石宝殿古墳の上山と複数個所あるため疑問に思います。


「石宝殿古墳は寝屋川市の東南部、打上地区に所在する。付近は、生駒山系の北端部 にあたる傾斜地で、本市最高地(標高110.7m)の「上山」 も近くに存在する」 (寝屋川市教育委員会. “石宝殿古墳.” 寝屋川市文化財資料, no. 14 (1990): 3. https://doi.org/10.24484/sitereports.17403 .)

1922年『大阪府全志』

『大阪府全志』(1922)や、それをそのまま掲載した『枚方市史』(1951)は、『大日本地名辞書』と同じく植山=上山=宇山説をとります。

「大字宇山 ……上山村と稱せしが、元和年間に至りて宇山村と改稱す。舊名の上山は植山ならんとの説あり、植山は大日本史坂上田村麻呂の傳に「延暦二十一年……夷酋大墓公阿弖利為・盤具公母禮……乃斬於河内植山」と見ゆる植山是れなり」 (井上正雄. 大阪府全志. Vol. 4. 大阪府全志発行所, 1922. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801/705 .)

1951年『枚方市史』

「坂上田村麻呂と宇山 延暦二十一年八月丁酉、先に坂上田村麻呂が蝦夷を平定して連れて帰つた二人の酋長を、後難を除くため河内植山(大字宇山の事)に於て斬つた。この地を択んだことは、この所が田村将軍と共に蝦夷の平定に功労のあつた百済王俊哲の出身地に近い為であろう。或は又、古史に見ゆる山田史、山田造、坂上氏とには血縁関係があるらしい事に関係をもつであろうか。」 (寺嶋宗一郎, ed. 枚方市史. 枚方市, 1951;31.) 「大字宇山 旧交野郡宇山村で牧ノ郷に属して古くは上山村と称したが、元和元年宇山村と称する様になった。延暦二十一年征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷の二酋長を率いて京師に帰り、次いで之を斬った河内植山とは当地の事と考えられる」 (寺嶋宗一郎, ed. 枚方市史. 枚方市, 1951;125.)

1935年 熊田葦城『膽澤城址』

歴史学者の熊田葦城はアテルイ終焉の地を宇山や藤坂と書いています。

「夷酋大墓公阿弖利為……夷酋阿弖流為の事なるべし……河内國植山とは、北河内郡牧野村大字宇山の事なるべし宇山の東一里、菅原村大字藤坂に、鬼塚あり、夷酋の首を斬りたるは、此處なるべしと云ふ、さすれば、大墓なるべし、今、之れを王仁の墓と稱す」 熊田葦城. “膽澤城址.” 日本史蹟大系. Vol. 3. 平凡社, 1935. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1161963/46 .

1965年 今井啓一『百済王敬福』

歴史学者の今井啓一は、出羽・陸奥国での蝦夷の軍勢との戦いにその生涯を捧げた 百済王俊哲への敬意から、亡命帰化した百済国の王家、百済王氏の本貫地・河内国交野郡の植山=上山=宇山で大墓公阿弖利為と盤具公母禮は斬られたのではないかと推定しています。


「世上、坂上田村麻呂の蝦夷経営の偉功を称し、また事実この大事業も田村麻呂によって一応、成功したとすべきではあるが、はじめ田村麻呂は鎮守将軍百済王俊哲の副将だった者である。従って田村麻呂も後年、よく先任者としての百済王氏に対して充分な敬意を表した遺証として、先ず河内国植山の地に蝦夷の二酋を斬ったことから述べよう……いま大阪府枚方市に入る旧牧野村に大字宇山……ともに勤労した坂上田村麻呂としては、先任者たる百済王祖廟(いま枚方市に入る旧中宮……百済王神社……百済寺阯……この辺一帯は敬福依頼、百済王氏の本居であった)……心ならずもニ酋を百済王祖廟に近いここ宇山に斬ったのではないだろうか」 (今井啓一. 百済王敬福. 綜芸舎, 1965. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2983757/20 :25-26.)

  • 文武4年(700)10月百済王遠宝(~734年)初代常陸守

  • 天平10年(738)陸奥介・百済王敬福

  • 天平15年(743) 陸奥守・百済王敬福

  • 天平18年(746)陸奥守・百済王敬福

  • 天平21年(749)4月陸奥守・百済王敬福(~766年)東大寺毘盧遮那仏の黄金を陸奥小田郡から調達

  • 天平勝宝元年(749)出羽守・百済王三忠、 陸奥守・百済王敬福

  • 天平宝字7年(763)出羽守・百済王三忠

  • 天平神護2年(766)出羽守・百済王文鏡

  • 宝亀5年(774)出羽守・百済王武鏡

  • 延暦4年(785)出羽守・鎮守副将軍百済王英孫

  • 宝亀11年(780)鎮守副将軍・ 百済王俊哲

  • 延暦6年(787) 鎮守将軍・百済王俊哲 延暦6年(787) 閏5月5日、日向権介・百済王俊哲

  • 延暦7年(788)2月28日陸奥守兼陸奥按察使兼鎮守副将軍兼鎮守将軍 多治比宇美

  • 延暦7年(788)7月6日征東大将軍・紀古佐美 延暦7年(788)12月征東大将軍・紀古佐美、節刀を受ける

  • 延暦8年(789)5月19日頃 巣伏の戦いで阿弖流為住居近くで蝦夷の軍勢が朝廷軍に勝利 延暦8年(789)9月8日征東大将軍紀古佐美、節刀を返上

  • 延暦9年(790)3月4日百済王俊哲へ免罪令入京

  • 延暦10年(791)7月13日征夷大将軍・大伴弟麻呂 延暦10年(791) 9月22日征夷副使・陸奥鎮守将軍百済王俊哲(~795年)

  • 延暦13年(794)1月征夷大将軍・大伴弟麻呂、節刀を受ける 延暦13年(794)6月13日征夷副将軍坂上田村麻呂と百済王俊哲他が蝦夷を征する 延暦13年(794)10月28日征夷大将軍大伴弟麻呂の戦勝報告と平安京遷都詔

  • 延暦14年(795)1月29日大伴弟麻呂征夷大将軍、節刀を返上 延暦14年(795)8月7日百済王俊哲逝去

  • 延暦15年(796)1月25日陸奥出羽按察使兼陸奥守・坂上田村麻呂 延暦15年(796)10月27日 鎮守将軍・坂上田村麻呂

  • 延暦16年(797) 出羽守 百済王聡哲 延暦16年(797) 11月5日征夷大将軍坂上田村麻呂

  • 延暦20年(801)02月14日征夷大将軍坂上田村麻呂、節刀を受ける 延暦20年(801)10月28日坂上田村麻呂征夷大将軍、節刀を返上

  • 延暦21年(802)4月15日大墓公阿弖利爲と盤具公母禮他が造陸奥国膽沢城使の坂上田村麻呂の元へ降伏 延暦21年(802)8月13日大墓公阿弖利爲と盤具公母禮、河内国で斬られる

枚方市旧津田村尊光寺所蔵『当郷旧跡名勝誌』(1682)では百済王氏の墓は津田村の札場から十余丁ばかり寅の方角へ離れた字・御墓谷にあり、そこには王仁博士も石の櫃にて埋葬されていると伝えられていますが(片山長三 . 津田史一九五七. 大阪府枚方市津田小学校内創立八十周年記念事業発起人会, 1957; 286-305.)、現・伝王仁墓と位置がずれていて所在地は不明です。



1971年 高橋富雄『胆沢城 : 鎮守府の国物語』

日本史学者の高橋富雄は、アテルイは枚方市で斬られたと書いています。

「そして、田村麻呂のせつなる申請を却下して、これを河内国杜山(大阪府枚方市)に斬ったのである」 高橋富雄. 胆沢城 : 鎮守府の国物語. 学生社, 1971. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9568953/48 .

1973年『みちのくの栄枯』でも同様です。

「ふたりは河内国杜山(大阪府枚方市)で処刑された」 千賀四郎, ed. 歴史の旅4 東北 : みちのくの栄枯. 小学館, 1973. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9536417/17.

1972年枚方市史第2巻

地元・枚方市の自治体史は懐疑的見解を出します。

「宇山=植山説が成立するためには、(a)河内国杜山や、(b)河内国椙山よりも、(c)河内国植山の方が正しいことを論証する必要がある」 (片山長三, 吉田清治, and 阪本平一郎, eds. 枚方市史. Vol. 2. 枚方市, 1972. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3009452/147 ;247.)

1970年代初頭頃の伝承

1993年枚方市教育委員会社会教育部長田宮久史氏の枚方市議会での発言から、少なくとも1973年頃には首塚と胴塚はアテルイのものだという伝承が存在していたとわかります。

「……まだ、ほんの20年ほど前から一部の方が胴塚とか、首塚とか、宇山地区にはそういう多分古墳だろうと思うんですが。実際胴塚と呼ばれていますところは発掘調査の結果、古墳だったということがわかりましたが、首塚、胴塚というようなことで伝わってきておりました。しかし阿弖流為のと言い出したのは、ほんの20年ほどのことです……(※枚方市教育委員会社会教育部長田宮久史氏) 『平成五年第三回定例会 枚方市議会会議録』P436-456. (馬部隆弘. 由緒・偽文書と地域社会. 東京: 勉誠出版, 2019;294.)

1978年『蝦夷 : 古代東北の英雄たち』

「阿弖流為と母礼は八月十三日、河内国杜山(大阪府枚方市)で斬刑に処される」 河北新報社, ed. 蝦夷 : 古代東北の英雄たち. 河北新報社, 1978. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9569954/93 :178.

1979年河北新報の報道

大阪府枚方市の蝦夷の統領伝承が河北新報によってアテルイと関連付けて報道されました。 古くから「蝦夷の統領が処刑された場所」と伝えられていた古塚とは報道された番地から宇山東町の宇山二号墳の事と思われます。

「現在の「枚方市宇山(うやま)町」が有力とされているものの、同編さん室ではなお“確証がない”と懐疑的な立場をとっている。ところが数年前、同神社の氏子……が、元の神社の神域で現在は公園になっている神社のわきにある首塚を発見した。古くから「ヘビ塚」「鬼塚」などと呼ばれ、付近住民の間には“さわるとたたりがある”などの言い伝えが残されていたという。「もしや斬刑にされた蝦夷の統領を葬ったものでは!」との声が付近住民から高まり、市民有志が約5メートル四方、高さ2メートルの土盛り塚に柵(さく)を巡らし保存するようになっていた……この塚の中央には長い間の風雪でかなりすり減った高さ五十センチぐらいの自然石が置いてあり、……岡田宮司によると三年ほど前には二つの石碑があった。同宮司はその後の調査で (1)杜山に関連するとされる「植山」「上山」は現在の「宇山」で、ここ以外にない (2)神社の所在地は地理的に河内国でも京都に一番近く、地元には古くから”戦いに負けた大物武将の首塚がある”との伝承があった (3)現場は、小高い丘のように土が盛ってあり“たたりがある”などの言い伝えがあったためか、人の手が入った様子は全くない…… たまたま最近、同神社から北東に1キロほど離れた同市宇山町の竹やぶでも高さ3メートル、周囲5メートルぐらいの古塚が発見され、朽ちはてた桜の古木とともに、古くから「蝦夷の統領が処刑された場所」と伝えられていることがわかった。 この場所は、同町二九四と二九五(※宇山東町295の宇山二号墳か?)の境にあるが、土地の所有者は昔から「自分の土地ではない」と忌みきらっていたという。こんなことから、見方によっては「処刑地」と「埋葬地」が合致することになり、貴重な遺跡に間違いないと地元では話題を呼んでいる。…… 梅原猛京都市立芸術大学長の話……ここが二人の蝦夷(えぞ)の首領の処刑の地と結び付くかどうかは、確証がない限りなんとも言えないが、できればもっと地元の古老の証言が欲しい。」 “蝦夷の統領ここに眠る? 阿弖流為処刑地と埋葬場所見つかる 地元の人々が保存 大阪枚方 古くから首塚の伝承”河北新報社,1979年3月25日,18面

夢見の女性説

枚方市教育委員会社会教育部長で市史編纂室担当者・田宮久史氏の1990年5月25日付けメモランダムによれば、その10年ほど前の1980年頃「エゾの酋長が斬られた」伝承を女性の市民へ伝達し、その市民を河北新報へ紹介したのは田宮氏と書かれています。


このメモランダムが誰によっていつ発見されたものなのか、誰によってどのように田宮氏本人のものだと確認されたのかについては謎です


現地では壊れた古墳を手厚く弔う信心深い女性がいらしたのですが、いわゆるアテルイの首塚のみ弔っていたわけではありません。田宮氏のメモランダムでも彼女がアテルイの首塚へ柵を立て網を張ったとは書いているわけではありません。

また1979年河北新報の報道では、アテルイの首塚は複数人で整備されたと書かれています。

「一九九〇、五、二五 アテルイの墓についての考え方……(1)一〇年ほど前、牧野地区の女性が市史編さん室に時々電話してきた。曰く、夢に時々長い白髪で白いあご髭の人が地中から半身を乗り出して何かを訴える。どんな人で何を言っているのかわからないが、昔この辺で何かありましたか。 (2)田宮ほとんど冗談として対応。昔、エゾの酋長が斬られた話がありますから、そんな関係でしょうか。…… (5)……女性は……独自に柵を立て、網をはり、何やら曰くあり気に飾りたてた。市はこの段階では一市民の酔狂と放置し、また他の市民もこの女性に同調する人はなかった。 ……(2)北上(河北)新報大阪支社の記者は河内で斬られたとすることから本市を訪ね、田宮から女性の存在を知り、片埜神社宮司を取材して、アテルイの墓を発見したとばかりに大きく報道した」 (馬部隆弘. 由緒・偽文書と地域社会. 東京: 勉誠出版, 2019;285-288.)

地名辞書類は、のきなみアテルイ宇山で斬られる説をとります。

1983年『角川日本地名大辞典』27巻

「うやま 宇山<枚方市>……延喜年間坂上田村麻呂が蝦夷の首長2人を斬った土地とする伝説がある(地名辞書・全志4)」 竹内理三, ed. 角川日本地名大辞典. Vol. 27. 角川書店, 1983.

1986年高橋崇『坂上田村麻呂』

歴史学者の高橋崇は著書の中でいわゆる「胴塚」があった、宇山東町の竹やぶの写真を掲載しています。

「伝阿弖流為処刑地<河内杜山,大阪府枚方市>(水沢市教育委員会提供)」 (高橋崇. 坂上田村麻呂. 新稿版. 吉川弘文館, 1986;151.)

1986年『日本歴史地名大系』第28巻

「宇山村……延暦二一年(八〇二)坂上田村麻呂が蝦夷の二首長を率いて帰京、二人は八月一三日に斬られたが、その場所を当地に比定する説がある(大日本地名辞書・大阪府全志)」 日本歴史地名大系. Vol. 28. 平凡社, 1986.

1990年3月神英雄『歴史地理学紀要』

アテルイが斬られたのは枚方市の宇山ではなく杉であるという学説がとなえられました。

「坂上田村麻呂と阿弖流為・母礼……そこで『日本紀略』の諸写並びに『日本逸史』写本を比較・検討して、『日本後紀』に記載されていた地名を推定すると、原典に記されていた文字は〔椙山〕であったと見られる。……古代河内国の郷名に椙山はない。後世の関連地名には、唯一交野郡に杉村(現枚方市杉地区)があるだけである。」 (神英雄. “桓武朝における造都と征討に関する歴史地理学的考察.” 歴史地理学紀要 32 (1990): 21–43. http://hist-geo.jp/img/archive/bulletin32.html .)

1990年『歴史地理教育』

「しかし、その後、アテルイとモレは河内の国杜山(大阪府枚方市)で首をきられた」 大橋宗昭. “指導要領に登場しない人物 アテルイ.” Edited by 歴史教育者協議会. 歴史地理教育, no. 455 (1990): 42–43. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7939628/24 .

1991年『日本の歴史 5 平安建都』

歴史学者の瀧浪貞子は、謎の伝承を掲載します。

「72伝アテルイの首塚 坂上田村麻呂の助命もむなしく殺されたアテルイ。付近に胴塚もあり、アテルイの怨霊を慰撫するために作られたと伝えられる。大阪府枚方市」 瀧浪貞子. 日本の歴史. Vol. 5. 集英社, 1991; 99.

1994年『朝日日本歴史人物事典』

「ふたりは河内国杜山(比定地未詳)で処刑された。枚方市には怨霊を慰撫するために作られたという阿弖流為の首塚,胴塚がある。( 瀧浪貞子)」 小泉欽司, ed. 朝日日本歴史人物事典. 朝日新聞社, 1994: 61.

1994年『歴史地理教育』

「……二人は河内国杜山(枚方市、杜は植か)で処刑されてしまった」 田中仁. “歴史の風景42.” Edited by 歴史教育者協議会. 歴史地理教育, no. 518 (1994): 42–43. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7939691/6 .

1994年京都・清水寺「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」



11月6日清水寺で「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」の除幕式開催。枚方市は史実ではないと断ったようです。

「当初(一九八九年)はアテルイ首塚の伝承地、枚方市牧野公園に供養碑を建立しようと、枚方市に陳情し、安倍満穂氏(胆沢町出身・現関西岩手県人会会長)と共に何度か足を運び運動しましたが、確証がないという事で残念ながら却下されました」 高橋敏男. -大和政権と蝦夷の-『確執』. 北天会(関西アテルイ顕彰会), 1996; 13.

1996年『歴史読本』

歴史学者の新野直吉は、岩手県側による枚方市建碑運動難航を記録しています。

「……吹田市の高橋敏男氏を会長とする「関西胆江同郷会」が、阿弖流為と母礼の慰霊・顕彰のための碑を建てたことがある。諸本、杜山・椙山・植山などと伝え、杜は植の略誤としても、椙か植かと異見も存する中で、彼らの終焉の地とされる枚方市に建碑を策した高橋会長たちは、学術的根拠を優先する当局からの許可は得られないでいた。そこに田村麻呂建立の名刹京都東山の音羽山清水寺で、森清範貫主の理解ある英断によって、平成六年、岩手県産御影石の堂々たる碑が境内に建立でき、十一月六日除幕法要が行われたのである。副知事以下の岩手県の熱意は新聞でも報道されたほどである。 地元には水沢市社会教育課内に事務局を置く「アテルイを顕彰する会」があり、地元の大先輩顕彰は追慕と讃仰の念に満ちている」 新野直吉. “【特集ワイド/まつろわぬ「原日本人」の謎】 第13の扉 蝦夷とは何者か 阿弖流為の実像を探る.” 歴史読本 41, no. 7 (1996): 122–127. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7975568.

1997年「郷土枚方の歴史」

枚方市の副読本『郷土枚方の歴史』は、アテルイの伝承を否定します。

「しかし、杜山、椙山、植山のなかで植山が正しいとする論拠はなく、まして、牧野公園内のマウンドを処刑地あるいは首塚とする歴史的根拠はまったくない」 福山昭, 服部敬, and 村田路人. 郷土枚方の歴史. Edited by 枚方市史編纂委員会. 枚方市, 1997: 67.

2006年「中学社会 歴史 未来をみつめて」(教育出版)

中学校歴史教科書「中学社会 歴史 未来をみつめて」(教育出版)にて、存在しない謎の塚・「エゾ塚」が登場します。

「現在(げんざい),大阪府枚方市(ひらかたし)には,「エゾ塚(づか)」とよばれる石碑(せきひ)があり,阿弖流為の墓(はか)とも伝えられています」 笹山晴生, 鳥海靖, 深谷克己, 神山恒雄, 木村靖二, 原口泉, and 大隅清陽, eds. 中学社会 歴史 未来をみつめて. 教育出版, 2006.

小学校副読本「わたしたちのまち枚方 小学校3・4年」でもアテルイの墓が登場します。

2006年『楽しく学ぶ枚方の歴史』

民俗学的な現象として記録されています。

「牧野阪の牧野公園には、近年、「アテルイの首塚」と呼ばれるようになった塚があります。この塚は、アテルイをきちんと弔ってやりたいという人々の気持ちが生んだものといえるでしょう」 福山昭, 服部敬, 村田路人, and 大竹弘之, eds. 楽しく学ぶ枚方の歴史. 枚方教育委員会, 2006.

2007年3月4日「伝阿弖流為母禮之塚」の碑

3月4日、枚方市牧野公園で「伝阿弖流為母禮之塚」の碑の除幕式開催。



2012年『新しい社会 歴史』東京書籍

歴史教科書にて伝阿弖流為母禮之塚の碑の写真が掲載されていますが、その塚の場所はアテルイ処刑の地として伝承された場所ではありません。

4.アテルイが処刑されたと伝えられる場所に立つ塚 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)にゆかりのある京都市(きょうとし)の清水寺(きよみずでら)にも,アテルイをたたえられる碑(ひ)が立てられています。(大阪府(おおさかふ)枚方市(ひらかたし)) 五味文彦, 戸波江二, 矢ケ崎典隆, 山本博文, 近藤和彦, 小風秀雅, 坂上康俊, and 岸本美緒, eds. 新しい社会 歴史. 東京書籍, 2012; 45.

2018年『新しい社会 歴史』東京書籍

5 アテルイ(阿弖流為)が処刑されたと伝えられる場所に立つ塚(大阪府枚方(ひらかた)市) 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)にゆかりのある京都市の清水寺(きよみずでら)にも,アテルイをたたえられる碑(ひ)が立てられています 坂上康俊, 戸波江二, 矢ケ崎典隆, 五味文彦, 荒井正剛, 山本博文, and 岸本美緒, eds. 新しい社会 歴史. 東京書籍, 2018; 49.

考察

百済王俊哲と坂上田村麻呂によって征された蝦夷の軍勢。平安京遷都の詔は征夷大将軍大伴弟麻呂の対蝦夷戦勝報告と同時に行われました。


巣伏の戦いで朝廷軍へ大打撃を与えた阿弖流為が畿内で処刑された阿弖利為と同一人物であれば、その処刑の象徴性は歴史的に非常に大きいものだと思います。


2022年の現在、ロシアの先住民族でもあるアイヌ民族との関係性を考えるにしても、今後さらに重要な意味を持つ出来事となる潜在的可能性を秘めています。

伝承が歴史学者由来かどうかは不明ですが、アテルイの供養は、氏子衆の信仰心や 坂上田村麻呂ゆかりの清水寺の宗教的な意味だけでなく、日本と京都の歴史の要としても非常に重要なものだと個人的には感じています。




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