アテルイの首塚の馬部隆弘先生説
- 田中愛子(横田愛子)

- 2月18日
- 読了時間: 4分
更新日:2月19日
◇point
・アテルイが亡くなった802年当時はまだ禁野ではなかったので、馬部先生が指摘された禁野で処刑はありえない説には矛盾があります。
以前『アテルイの首塚は胴塚より先?』にてアテルイの助命嘆願をした坂上田村麻呂が「造西寺長官」であった事、大阪府枚方市の所謂アテルイの首塚はその「造西寺司」の官営瓦窯の牧野阪瓦窯跡(坂瓦窯の跡)があった場所で、首塚はそのえにしから発生した伝承である可能性について書きました。
ここでは、馬部隆弘中京大学教授の説について少し論考します。
禁野での殺生禁止とアテルイの処刑
2006年馬部先生は『河内国禁野交野供御所定文』の記述からアテルイの首塚が所在する場所は禁野に該当し、禁野では鷹狩の餌と鷹狩による殺生以外の殺生を禁じていたため802年のアテルイの処刑はありえないと書かれました。禁野の範囲は南限は天野川、西限は淀川、東限の高峯を国見山(津田山)、北限は小金川としました。(馬部隆弘. “蝦夷の首長アテルイと枚方市 -官民一体となった史跡の捏造-.” 史敏 3 (2006): 72–90.)
2021年吉川真司京都大学名誉教授(日本古代史)は、『河内国禁野交野供御所定文』等を元に河内国の禁野が禁野に指定されたのは承平年間(931~938年)だと指摘しました。禁野の範囲は南限は讃良川、西限は淀川、東限の高峯を国見山(津田山)、北限は小金川としました。
(吉川真司 . “河内国楠葉牧の再検討.” 日本古代の畿内・近国における牧の総合的研究 (課題番号18K00979)平成30年度~令和2年度科学研究費補助金(基礎研究(C))研究成果報告書, 2021, 37–67. https://nara-u.repo.nii.ac.jp/records/2003096 .)
アテルイが亡くなった802年当時はまだ禁野ではなかったので、馬部先生が指摘された禁野で処刑はありえない説は成立しないことになります。
2017年のblogで馬部先生の説について、アテルイ終焉の頃はまだ殺生への禁忌思想自体はまだ発生していないとの指摘がある旨を掲載していますが、いつから禁野だったのかは考察外でした(眞葛原雪. “アテルイのお墓は河内国のどこ?.” Life in Japan blog (旧 サッカー評 by ぷりりん), September 21, 2017. https://web.archive.org/web/20201201031535/https://blog.goo.ne.jp/pririnsoccer1/e/1638074ae0a670347f74e75f38aa279a .)。
女性が夢見た白髪で白いあご髭の人の1990年メモ
1990年5月25日付の市史編さん室で勤務していた田宮氏のメモ(「アテルイの首塚・胴塚伝承は江戸時代からあった?」)について市民が枚方市へ確認した処、いつから存在したのかについての記録が無いそうです。田宮氏の平成5年(1993年)枚方市議会の発言と内容に食い違いがあるので、このメモを証拠として使用するには、いつ、誰が、どこで、そのメモを発見したのかと、そのメモが1990年5月時点で田宮さんが書いたものである証明が必要になると思います。
牧野阪古墳とアテルイの首塚
2019年頃、大阪府の遺跡地図にはアテルイの首塚は牧野阪古墳と書いてあること(枚方市の発掘担当者にも市民が確認済み)、1952年の造成工事前の航空写真では森であった事を指摘して、馬部先生がアテルイの首塚は元々は何も無い荒れ地と『由緒・偽文書と地域社会,馬部隆弘,2019,勉誠出版』301頁で表土剥き出しの写真を添えて書いた事を批判しました。1952年頃の造成前の空中写真を見ると、アテルイの首塚は鎮守の森だったことがわかります(米軍空中写真USA-M34-3-53,コース番号:M34-3,写真番号:53,撮影年月日1948/03/31(昭23),撮影地域:京都西南部)。
2020年の論文で馬部隆弘先生は牧野阪古墳の論文著者へ牧野阪古墳は首塚から道路を隔てた公園にあったと2019年に確認したと反論されました(馬部隆弘. “アテルイの「首塚」と牧野阪古墳.” 志學臺考古, no. 20 (2020): 1–6.)(宮川徒. “枚方市字阪の一古墳概報.” 古代學研究, no. 9 (1954).)。
しかし、馬部先生の反論では道路を隔てた公園に牧野阪古墳があったことはわかりますが、首塚の場所に何があったのかはわかりません。神社の鎮守の森の下はどのような様子だったのでしょうか。
2017年のblogやtweetで首塚から道路を隔てた公園に古墳があった事については既に書いています。地元の方から公園内には他にも塚があったことも聞いています。枚方市が発掘した宇山一号墳二号墳もこの近くで、付近にはおそらく古墳とみられる小さな塚が他にもありました。東側にも大量の焼き物類が出た古墳が小学校の校庭内にあります。
2018年、「宇山説」が有力なら旧交野郡に属していた寝屋川市の石宝殿古墳の「上山」や、旧宇山村(その前は上山村)飛び地の中世墓や、上ノ山遺跡の可能性があると記しています。
(寝屋川市教育委員会, ed. 寝屋川市文化財資料14:石宝殿古墳. 寝屋川市 - 大阪府: 寝屋川市教育委員会, 1990. https://doi.org/http://doi.org/10.24484/sitereports.17403 .)(眞葛原雪. “アテルイのお墓はきっとここ.” Life in Japan blog (旧 サッカー評 by ぷりりん), Spring 11, 2018. https://web.archive.org/web/20210128001404/https://blog.goo.ne.jp/pririnsoccer1/e/ded4638479f5b9c37a66c86616ab6136 .)(眞葛原雪. “アテルイのお墓は河内国のどこ?.” Life in Japan blog (旧 サッカー評 by ぷりりん), September 21, 2017. https://web.archive.org/web/20201201031535/https://blog.goo.ne.jp/pririnsoccer1/e/1638074ae0a670347f74e75f38aa279a .)。


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