報道の『山崎の合戦に遅参した羽柴秀吉』馬部隆弘先生についての論考
- 田中愛子(横田愛子)

- 4月21日
- 読了時間: 12分
更新日:5月1日
2026年の年初からジャーナル『戦国史研究』91号掲載記事の題名『山崎の合戦に遅参した羽柴秀吉』が公開され話題となっていたようで(1)、3月13日と4月4日大々的に新聞報道されました(2)。『戦国史研究』91号は2026年4月3日出荷開始(3)、出版日は4月3日(4)、発行は3月25日です。この論文とは全く無関係ですが、以前『戦国史研究』の88号の印刷された発行日が2024年9月30日、真の出版日は2025年2月25日という出来事がありました(5)。学術ジャーナルの発行日と真の出版日がズレると、先行研究者が剽窃や盗用をしたと認識されるので、研究職の方々にとって非常に危険な事態と怖くなりました。時間が経過すればするほど確認できる手段がなくなりますし、国立国会図書館で調べても本当の発行日がいつだったかを確認する事はできません。

論文では秀吉が「……(※6月)十二日に一旦山崎に赴いて布陣をすでに定めていれば遅参にはならないが、その事実はこの史料以外では確認できない……秀吉の遅参を伏せる意図が見え隠れする」と書かれています<cite>馬部隆弘. “山崎の合戦に遅参した羽柴秀吉.” 戦国史研究, no. 91 (2026): 34–35.</cite>。この史料とは十月十八日付秀吉から信孝の家臣に宛てたものの事です。
しかし宗及の「津田宗及茶湯日記」6月12日条は、私の読み方が間違っていなければ、6月12日山崎着陣とあり、布陣を定めたとまでは書いてはいないものの、着陣と書かれているようで、「この史料以外では確認できない」という点が矛盾しますから、論文の説は成り立たないのではないでしょうか。
「同六月十二日ニ羽柴筑前守殿從西國出張也山崎迄十二日ニ着陣即我等モ爲見廻參堀久太郞殿路次ヲ令同道候即十二日ニ筑州ハ富田ニ御在陣也 同十三日ニ於山崎表かつせんあり……」 <cite>松山米太郎 評註『津田宗及茶湯日記 : 評註』他会篇 下,津田宗及茶湯日記刊行後援会,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1114543/1/124 </cite>
論文では『勝龍寺城関係資料集』の「宗及他会記」を参照して「六月十二日に秀吉方の先発隊は山崎に着陣したが、秀吉自身は摂津国富田に在陣していた」と書かれていますが(“宗及他会記”長岡京市歴史資料集成1『勝龍寺城関係資料集』,2020)、『勝龍寺城関係資料集』は自治体の史料集なので、津田宗及茶湯日記の6月12日条を掲載していなかったのかもしれません。
山崎の範囲
山崎の範囲は意外と狭いです。
「かつての大山崎荘……摂津側の大山崎は大阪府島上郡島本町山崎となり、山城側の大山崎は円明寺村・下植野村とともに、明治二十二(一八八九)年、京都府乙訓郡大山崎村を構成…」<cite>1頁,大山崎町史,1983</cite>
秀吉、山崎の合戦に遅参について
山崎の戦いに秀吉の本隊が遅れて到着したという記載は以前からあったようです。
「かくして秀吉率いる本隊の到着が遅れた結果、前線の羽柴方は苦戦を強いられた」<cite>樋口晴彦. 本能寺の変. 学習研究者, 2008,214.</cite>
馬部先生のほぼ同時に出された論文では、秀吉は大山崎荘西国街道沿いの「宝積寺」で本陣をかまえたという前提のようですが(通説?地域伝承?)同時にそれが後世作られたものだと書いておられます<cite>馬部 隆弘, 2026, 山崎の合戦と池田恒興: 中京大学文学部, 185–201 p.
https://doi.org/10.18898/0002001022 </cite>。
紀要論文「山崎の合戦と池田恒興」では『戦国史研究』羅針盤「山崎の合戦に遅参した羽柴秀吉」で書かれた秀吉遅参を隠す文書を作った説を大前提に書かれているのですが、秀吉遅参を隠す意図で文書を作った説の立証をコラム的性質がある羅針盤で書き、それの真実性を前提に論文を同時に書くのは、あやういかもしれないと感じました。ほぼ同時に出す論文の大前提を別のジャーナルのコラム的欄で書かれると、読者は検証が非常にし辛くなります。
山崎の合戦の定義
フロイスによると第一回の明智軍との衝突の勝利は「正午」だったようで、秀吉達は3レグワから1レグワ後方まで迫って来つつあったものの間に合わなかったと書いていますが、大軍だったので明智光秀軍の士気を削いで戦局に直接影響を与えたと書いてあります。第二回目以降の衝突については書かれていませんが、この第一回目の戦闘を「山崎の合戦」と定義するのであれば、秀吉だけでなく中川清秀も池田信輝も山崎の合戦に遅参した事になるかもしれませんが、その場合、『乙夜之書物』に書かれた「先手山崎」の戦いはともかく「右ノ方山崎ノ後天王山」での銃撃戦や、勝龍寺城を包囲した銃撃戦<cite>P.124-138,萩原大輔. 異聞 本能寺の変-「乙夜之書物」が記す光秀の乱. 八木書店, 2022.</cite>はどの「いくさ」に入るのかがわからなくなりはしないでしょうか。明智光秀が坂本へむけて敗走したシーンまで含めるのが通例なのかどうかはよくわからないです。
……領主(茨木城主中川清秀)が彼と和を結んで山の手を進み、イケドノIquedono(池田信輝)と稱する他の領主は……淀の大川に沿うて軍隊を進め、ジェスト(※高山右近)は中央を進んで山崎の村に向かった。……明智が甚だ近づいたと聞いて、急使を三レグワ餘の後方(摂津國富田)にゐた羽柴殿に遣はし、成るべく急がんことを請ひ、……羽柴殿の軍隊の到着が遅れたるを見て、……第一回の衝突が終わって、ジェストの両側より進んで来た二人の殿が到着し、明智の兵は逃げ始めた。敵の勇気を最も多く挫いたのは、三七殿と羽柴殿が二萬以上の兵を率ゐて、同所より一レグワ足らずの所に在ることを聞いたことであつた。併し彼等は疲労してゐたので到着することが出来なかつた。 <cite>ルイス・フロイス, "一五八二年の日本年報追加," 『耶蘇会の日本年報第1輯』, 274-275, イエズス会 編, 村上直次郎 訳, 耶蘇会 編 (拓文堂, 1943). (1582) https://dl.ndl.go.jp/pid/1918977/1/176 .</cite>
『豐鑑』では12日に天神馬場、13日未明に天神馬場を立ち山崎へ向かったようです。<cite>内外書籍株式会社 編『群書類従 : 新校』第十六巻,内外書籍,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1879789/1/215 </cite>
開戦時間
論文では山崎の合戦の開戦時間は申刻約午後4時と推定されていました。そのように書いてある歴史のご本が殆どだと思いますが、その時刻は京都市左京区の吉田兼見に銃声が届いた時刻ですから、もしかしたら違うのではないかと思います。
「六月十三日……雨降、申刻至山崎表、鐡放之音數刻不止、及一戦歟」 <cite>"兼見卿記"東京大学史料編纂所 編『大日本史料』第11編之1,東京大学,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3450624/1/243 </cite>
フロイスの記録では三手にわかれてせめていた第一回衝突の勝利は13日正午となっているので、矛盾を感じます。
『惟任退治記』でも三手にわかれて攻めていて、明智光秀方は数刻防戦していたとあります。
「……右之軍勢分三筋、作鍵衝懸、惟任人數段段ニ立置、數刻防戰之處、中筋川手山手一度廻旗手、矢楯不潴押込、即時追崩、悉皆敗北、惟任近侍三十計、一手ニ塊、楯籠勝龍寺……」 <cite>339頁,"惟任退治記"近藤瓶城 編『史籍集覧』第13冊,近藤出版部,明治39. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1920348/1/175 </cite>
「彼らは軍勢を三手に分け、槍を前面に押し立てこれを中心に攻撃をしかけてきた。光秀は軍勢をいくつかの隊に分け数刻防戦していたが、中筋・川の手・山の手三方とも一気に攻め込まれ、矢も盾もたまらず押し込まれ、軍勢はすぐに崩壊してしまった。」 <cite>"惟任退治記"『歴史読本』編集部. ここまでわかった! 明智光秀の謎 (新人物文庫) (p.234). KADOKAWA / 中経出版. Kindle 版.</cite>
山崎の合戦の舞台の大山崎荘の地形だと、もし戦場が大阪府寄りの宝積寺附近であれば、天王山と鳩ヶ峯が遮蔽し、吉田兼見がいる吉田山には銃声は届きにくくなります。また、音は雨の日は早く伝わる性質を持ち、夜になり上空の気温と地表の気温が「逆転層」を形成すると音は遠くまで聞こえるようになりますから、天正十年六月十三日は太陽暦7月2日で申の刻は16時59分頃なので、その頃から銃声が聞こえはじめたのは風向きや雨天の気象条件と、戦場の位置の変化と京都盆地内での音の反射の関係かもしれません。雨足が強ければ火縄銃は使いにくいと思われますから、銃声が響いたのは、雨足が弱って火器使用を開始したからかもしれません。勝龍寺城からの銃声は天王山や雨雲に反射して、吉田神社の背後の吉田山がパラボラの様に集音するでしょう。
金井文書と浅野家文書と松花堂所蔵古文書と
論文では、10月18日付秀吉の文書写しは織田信長の葬儀翌日の10月14日付秀吉の文書を推敲したものであり、それは遅参を隠すために12日に秀吉が山崎へ行ったと追記されたものであると主張されています。
論文の10月18日文書は、「信孝様・信雄様江従秀吉様披露状之写」という端裏書がある『浅野家文書』と類似した秀吉の文書とあります。その端裏書を持つ類似文書は下記の浅野家文書、10月18日付け秀吉の文書はこの「金井文書」と思われます。
「金井文書……(天正十年)十月十八日 秀吉在判 齋藤玄蕃 岡本太郞左衞門殿……(1)この文書は本が傳はらず、何れも寫本であるが、この他浅野家文書(大日本古文書)に載せるものは(端裏に「信孝様信雄様江従秀吉様披露状之寫」とあり、「去八日之御書、今月十八日午刻」)去八日之御書、今日十八日午刻謹而」と書き初めてある)、字句の異同があり(傍註[]にしるすはこれによる)、また松花堂所蔵古文書集に收むるものは十月十四日附である、」 <cite>国民精神文化研究所 編『国史資料集』国民精神文化文献 11 第3巻上,国民精神文化研究所,昭和18. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1155567/1/119 </cite>
端裏書がある類似文書・浅野家文書とわかりますが、
「一〇 豐臣秀吉披露状寫(端裏書)「信孝様信雄様江従秀吉様披露状之寫」」 <cite>東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書』家わけ第2 (浅野家文書),東京帝国大学,1906. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/994445/1/31 </cite>
推敲されたか否かは、
「去八日之御書、今日十八日午刻謹而」 <cite>東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書』家わけ第2 (浅野家文書),東京帝国大学,1906. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/994445/1/31 </cite>
つまり
「〇浅野家文書ニハ、本月八日ノ書状、十八日午刻拝見トアリ、」 <cite>775頁,東京大学史料編纂所 編『大日本史料』第11編之2,東京大学,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3450625/1/431 </cite>
とあるので、もしこれをこのまま読む立場に立てば、十四日付「松花堂所蔵古文書集」から推敲したとはいえません。昭和3年の『大日本史料』では十四日付文書は草案で信孝に渡せず、8日付の信孝からの文書を18日に拝読した秀吉が18日付文書を信孝へ渡したのではないかと推定しています。<cite>786-787頁,東京大学史料編纂所 編『大日本史料』第11編之2,東京大学,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3450625/1/437 </cite>。
また「松花堂所蔵古文書集」を写したのが山崎の合戦があった大山崎荘の川向いに住まわれていた松花堂昭乗(1584年-1639年)であれば、「書き分け」を例示するために作製した「書札礼」の可能性があります。参考書のような性質の文書だったのかもしれません。
特徴としては、将軍の発給文書を例示しているということである。その中で、「書札礼」と「書き分け」が指摘される。 書札礼とは、「文書の差出者受取者との相互関係に拠って、書札を書くべき種々の形式、あるいは一般文書作成上の礼義、技術を伝えるために作られたもの」である。 <cite>松花堂昭乗の江戸下向 歴探会員、松花堂昭乗研究所研究生、古文書の会八幡会員:奥山邦彦,| 2013-02-28,八幡の歴史を探究する会,昭乗の江戸下向 35号 https://yrekitan.exblog.jp/22316759/ </cite>
明日(6月13日)西岡へという秀吉達の文書

6月13日付の秀吉と信孝の文書には明日西岡へ行く予定と書かれたものがありますが、秀吉が陣した富田が最南端で、信孝が陣した天神馬場がその北、山崎村はその北で、勝龍寺城がある西岡はその北で、文書には今日13日はその中間にある山崎を通過したり戦場にする予定はないとは書かれておらず、山の斜面とすぐ傍に雨で増水した淀川という難地形である山崎村で何万という大軍で陣を作るスペースも確保し辛く、山崎で合戦した際に陣を摂津国側へ置くか西岡側へ置くかは戦況次第という事だったのではないかと思いました。
信孝から筒井順慶宛て
論文の「明日西岡へ可進発展」と書かれた織田信孝から筒井順慶に宛てた13日付文書はこちらだと思われます<cite>426頁,東京大学史料編纂所 編『大日本史料』第11編之1,東京大学,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3450624/1/243 </cite>。
天神馬場と勝龍寺城がある西岡との間に山崎はあるので、どのような予定をたてていたのかは不明です。信孝の陣が天神馬場なのがわかります。
丹羽長秀・秀吉の副状
論文の「今日三七様川を披成御越、高槻面御陣取之儀候、明日者西岡表へ可有御陣替候」と書かれた丹波長秀と秀吉の副状はこちらの論文で引用されているものだと思われます<cite>藤田達生. “「公方」から「天下」へ.” ヒストリア, no. 166 (1999): 62. https://dl.ndl.go.jp/pid/12533435/1/33. </cite>。
中京大学文学部所蔵の小寺職隆宛て秀吉文書
六月十三日付新出史料でも「……明日ハ西岡へ打出可着陣□……」と記載されています。
洞ヶ峠の河内国交野郡の伝承
洞ヶ峠をきめこむの洞ヶ峠は河内国交野郡招提村にあります。片山長三が面白い伝承を記録しています。招堤村の洞ヶ峠、津田村の国見山(津田城?)からは秀吉が陣した摂津国富田の本照寺や天神馬場は不可視ですが、倉治村の交野山からは可視です。この伝承にはなにがしかの次元での史実性がもしかしたらあるのかもしれません。
「…山崎戦勝後の秀吉はあとで、隣村津田城や招堤が明智方となつたのに、倉治郷士は中立を守つてくれたと、その態度を大いによろこんで、その翌月には機物神社…」 <cite>205,交野町史,片山長三(編),1963.</cite>



(1)
(2)各種新聞報道
豊臣秀吉は「山崎の戦い」に間に合わなかった? 明智光秀との決戦直前の動き、書状で明らかに
2026年3月13日 05時00分 (3月13日 12時22分更新) https://www.chunichi.co.jp/article/1221982
天下分け目の天王山、実は秀吉が「遅参」していた? 山崎合戦で新説
2026年3月13日 5時00分 平賀拓史 https://www.asahi.com/articles/ASV3D1H0WV3DUCVL011M.html
信長の敵討ち、秀吉「遅参」? 「山崎の合戦」中京大教授が書状入手
2026年3月13日 5時00分 https://www.asahi.com/articles/DA3S16421989.html
秀吉、主君信長のあだ討ち「山崎の合戦」に遅参か…開戦当日に「明日出撃する」との書状
2026/03/13 07:00 https://www.yomiuri.co.jp/culture/20260313-GYT1T00087/
「天下分け目の戦い」で明智光秀を破ったのは秀吉ではない…天下人がどうしても隠したかった「中国大返し」の真実
香原 斗志 2026/03/22 15:00 https://president.jp/articles/-/110653
信長の敵討ちに秀吉は遅参か 山崎の合戦めぐる書状分析に注目
2026年4月4日 16:18 https://www.okinawatimes.co.jp/articles/gallery/1810394
2026/04/04 16:18 https://373news.com/news/national/photo/2026040401000699
信長の敵討ち、秀吉は遅参? 「山崎の合戦」巡って新説に注目
2026/4/4 17:09(最終更新 4/4 17:09) https://mainichi.jp/articles/20260404/k00/00m/040/103000c
Sat, 04 Apr 2026 19:04:15 +0900 https://www.chiba-tv.com/plus/detail/2026041484581
2026/4/4 16:55 https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/980287
2026年4月4日 掲載 2026年4月4日 更新 https://www.sakigake.jp/news/photo/20260404CO0069/1/
山崎の合戦、羽柴秀吉は遅参? 書状を分析の中京大教授が新説
2026年4月5日 16:31 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD041QW0U6A400C2000000/
2026年4月6日 05:00 https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/690374
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